【電通の正体】(11) 起業家の光永、テレビ獲った吉田、スポーツビジネス開拓した成田…知られざる電通史

初代社長の光永星郎、4代目社長の吉田秀雄、9代目社長の成田豊。この3人の時代に、『電通』は大きく成長した。同社を作ったと言われる3人の社長の実績と共に、同社の正史を辿る。 (メディア評論家 阿賀野太郎)

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電通の前身である『日本広告』は1901年に、『大阪朝日新聞』発行の政治紙『大阪公論』の記者であった光永星郎(左画像)が創業した。日清戦争時に『福岡日日新聞』等の従軍記者として、旅順総攻撃等の記事を書き送ったこともある光永は、「ジャーナリズム活動には、記事を配信する通信社と、広告を配信する広告会社の機能を一体化した会社が必要だ」と考えた。記事と広告は経営を支える2本の柱であり、現代でいうエコシステムである。光永は起業家精神に富んでいた。日本広告を設立した光永は、その4ヵ月後、通信社機能を持つ『電報通信社』を日本広告社内に併設した。1906年には電報通信社を改組し、『日本電報通信社』とする。電通は翌1907年に日本広告を合併。ここに、通信と広告の併営が完成する。電通の通信部門は、新聞社や他の通信社と伍して、特ダネ競争で異彩を放った。満州国の設立に繋がる満州事変(1931年)勃発のニュースは、電通による歴史的な特ダネだ。しかし、第2次世界大戦が勃発すると、政党や政府の資金に頼らずジャーナリズムを追求する光永に、戦時下の情報統制の圧力がかかってくる。つまり、日本の利害を内外に統一して発信する“ナショナルニュースエージェンシー(国営報道機関)”を創設する構想である。政府はメディアの統合を企てた。標的となったのが、2大通信社の電通と『新聞聯合社』だった。国営になれば、大本営発表を流すだけの機関になる為、光永は激しく抵抗した。結局、1936年に電通と聯合は其々、通信と広告部門を分離。再統合された通信部門は『同盟通信社』となり、広告部門は電通に集約された。電通は広告専業となって、終戦を迎えることになる。一方、通信部門は『共同通信社』と『時事通信社』に分かれた。2社は、1948年に電通が増資の為に発行した新株を引き受けて以来、電通の大株主になっている。

電通が世界的な広告会社にのし上がったのは、第4代社長で、“中興の祖”と呼ばれる吉田秀雄の時代だ。吉田が入社したのは1928年、戦前の日本電報通信社の時代だ。この年、電通は初めて大卒社員の定期採用を実施。東京帝国大学経済学部を卒業した吉田は元々、記者志望だったが、新聞社の入社試験に悉く落ちた。当時は就職氷河期。既に妻がいた吉田は、「兎に角、就職しなければ…」と電通を受験。面接では、記者職より人気が低かった営業職を志望して採用された。吉田が配属されたのは、地方紙向けの広告を取り扱う“地方部”である。地方紙の首脳と知己になれるこの部署は、実は先代の社長を輩出したエリートコース。ビジネスの才覚に恵まれた吉田は出世街道を直走り、終戦直後の1947年に、僅か43歳という若さで社長に就任した。社長就任の年、『連合国軍総司令部(GHQ)』は“私営(民間企業による)放送会社の助長”という指針を出し、日本の商業放送の振興に舵を切った。吉田は戦前の満州において、国営の『満州電信電話会社』による民間放送が、聴取料と広告収入による2本立ての経営で行っていたことを知っており、「広告収入による無料放送が可能である」と気付いていた。更に、世界に先駆けて民間ラジオ放送を開始していたアメリカで、ラジオ局が広告収入による無料モデルで成功を収めていることを知っていた。来たるべき民間放送時代は広告が巨大な富を生むことを見抜いていた吉田は、放送局との関係強化に注力する。1950年、民間企業にラジオ放送の門戸が開かれると、全国の新聞社や企業が競って放送免許の獲得に乗り出した。ところが、あまりにも申請が殺到した為、放送事業を監督する国は、免許を与える企業の選定に苦心する。そこで、地方新聞社と強い関係を築いていた吉田は、免許の取得に当たり、各社の調整役を買って出た。吉田は「報道機関であり、地域の名門企業でもある有力地方紙が免許を取得すべきだ」と、免許申請した各社を説得して回り、地域毎に申請会社を一本化させた。ラジオ黎明期に開局した民間企業に地方紙の系列会社が多いのは、吉田の働きかけによるところが大きい。また電通は、日本初の民間ラジオ局である『中部日本放送(CBC)』を始め、独立系の局にも出資した。それに留まらず、当時、番組制作のノウハウが不足していた地方ラジオ局に、電通の優秀な社員を制作スタッフとして送り込むといったこともしていた。こうして電通は、ラジオ局とも強い関係を築いていく。1953年に民間テレビ放送の時代が幕を開けると、有力地方紙等がテレビ局を傘下に持つ過程で、電通はテレビ局にも食い込んでいった。広告会社として逸早くテレビを開拓した電通は、業績を急速に伸ばした。また、吉田は戦後直ぐ、満州から帰国した人材を数多く採用した。その中には、『南満州鉄道』の元社員等もいた。彼らの持つ幅広い人脈に吉田は注目し、その力を利用した。吉田は、「広告がメディアの経営を支え、且つメディアを育てる」と信じていた。これは、創業者である光永の精神を受け継いだものだ。吉田が電通社員向けに作った社訓である有名な“電通鬼十則”は、光永が欧米を視察旅行した際、経営陣に書き残した25ヵ条の社訓が原典だ。吉田が没してから10年後の1973年、電通は広告取扱高で世界一になった。

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日本の広告費が史上最高の6兆円を突破した2000年に電通を率いていたのが、1993年に第9代社長に就任した成田豊だ。東京大学在学中に結婚し、就職試験に落ち続けたという成田は、1953年に電通に入社し、地方部に配属される。こうした経歴は、吉田によく似ている。「電通の歴史は、光永から吉田に引き継がれ、成田に続く」と言われることと無関係ではないだろう。成田の白眉は、電通創立100周年の2001年に、『東京証券取引所』第1部に上場を果たした瞬間であろう。ただ、成田の最大の業績は、一広告代理店としての電通を、オリンピックやサッカー、更には演劇や映画といったジャンルまで手がける総合プロモーション企業に育てたことにある。成田が取締役に就任した直後の1981年、電通はある情報を入手する。それは、「1984年のロサンゼルスオリンピックが民間運営される」というものだった。当時、オリンピック担当役員だった成田は直ぐに動き、大会組織委員長のピーター・ユベロスから、「電通を運営パートナーとする」という承諾を取り付ける。この時、成田の下でロサンゼルスオリンピック室長としてユベロスとの折衝役を担ったのが、後の2002年サッカーW杯日韓大会の招致でも重要な役割を担ったと言われる服部庸一だった。成田は、電通が1社でみると世界第1位の広告取扱高とはいえ、海外での取扱高が1割に過ぎないことを憂慮していた。そこで成田は、電通の国際化を推し進める為の梃子に、スポーツを位置付けた。その後も成田は、ロサンゼルスオリンピックをきっかけに、スポーツ分野に足早に乗り出していく。『国際サッカー連盟(FIFA)』や『国際陸連』との関係構築も、そのひとつだ。成田時代に実務に当たり、FIFA幹部と深い関係を築いた電通マンに、元専務の高橋治之がいる。他方、演劇では『劇団四季』専用劇場の『キャッツシアター』を電通本社内に開設した。成田が同劇団の演出家である浅利慶太と親交があったからだ。成田時代の電通がビジネスの幅を広げることができた背景には、政財界のみならず、芸能界や文壇にまで及んだ成田の広い人脈があった。また、成田はM&A(企業の合併・買収)も推し進めた。2000年には、アメリカの『レオバーネット』『マクナマス』の2グループと『Bcom3グループ』を設立。成田が没した2年後の『イージスグループ』(イギリス)買収劇も、成田が起点のグローバル戦略の成果と言えるだろう。 《敬称略》


キャプチャ  2016年8月23日号掲載

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