【財務省大解剖】(05) “大蔵批判”後に税務調査の意趣返し! 元朝日新聞編集委員が体験した1990年代“大蔵省vsメディア”攻防戦

戦後の政界・金融界の“振り付け役”を担当し、日本型“護送船団”を演出してきた大蔵省(現在の財務省)。その腐敗を暴こうとした元朝日新聞編集委員でフリージャーナリストの山田厚史氏が、大蔵省との激しき攻防の舞台裏を振り返る。

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「大蔵省の取材では、ご苦労だったね」――。編集局長は隣にどっかと座ると、「今日、初めて話すんだが…」と前置きして、国税庁とのやり取りを語り始めた。1997年の暮れ、築地の『朝日新聞社』に近い飲み屋で開かれた忘年会の席。当時、私は経済担当の特別編集委員で、大蔵省や『日本銀行』の“構造問題”を取材。その年の3月まで半年に亘り経済面で連載した『大蔵支配・歪んだ権力』の執筆チームにも加わっていた。「君たちが連載を始めて暫くしてから、国税の知り合いから電話が掛かってきてね。『ちょっと考えてくれないか?』と言うんだ。朝日が正面から大蔵省に切り込んでいるのが困るということなのだろう。つまり、『お手柔らかに』ということだ」。大蔵省は、「編集局長に電話すれば何とかなる」と思ったのかもしれない。編集局長は、こう続けた。「『現場の記者が一生懸命取材していることに、上から口出しはできない。そんなことはおわかりでしょう』と言ってやったよ。『事実に反することを書くなら兎も角、第一線が練り上げた企画に、編集局長が後からとやかく言うなんてできませんよ。ご存知だと思いますが、朝日新聞はそういう新聞なんです』とね。まぁ、お引き取り願った訳だ」。編集局長が断ったら、国税の“説得”は経理担当役員に向かったという。「経理担当は、『そんなことをこっちから言ったら、編集の連中は逆に勢いづいて、もっと書きますよ』みたいなことを言っていた。まぁ、色々あったが、『こんなことは現場に伝えることではない』と思い、腹に仕舞っておいた。もう1年も経った。まぁ、そんなこともあった。ご苦労さん」。そうか、やっぱり“警告”があったのか。思い出したことがある。この年のある日の夕方、同僚の編集委員が私の席にやって来て告げた。「ヤマちゃん、とうとう国税が入ったぞ」。彼は社会部出身で、企業の脱税や税務全般を担当する特ダネ記者だ。『大蔵支配』の企画を進める段階で、「国税にも触れざるを得ませんが、その時はご迷惑をかけるかもしれませんが…」と挨拶をした。後述するが、国税庁は社会部の“縄張り”である。経済記者から越境すると、何かと摩擦が起きかねない。予め仁義を切ったのである。

担当の記者を走らせ、国税が何を狙って朝日新聞に調査に来たのか、調べさせた。暫くして、「狙いは我が社の社外連絡費」という報告が入った。社外連絡費とは、関係先との飲食等接待に使うカネである。時には社外の接待と称して、身内の会合や私的な飲食に流用する不届き者がいて、叩けば埃が出る費目である。「『記者さんが使う“はしたガネ”には興味ない』と言っています。どうやら、広告代理店や新聞販売店を相手にした交際費を厳しく調べるらしい」。社内でも、「販売局や広告局のカネの使い方は、編集部門と桁が違う」と言われていた。しかし、そんなことは今に始まったことではない。探りを入れに行った記者によると、国税の担当者はこんなことも言ったという。「お宅の元気のいい記者が来てね、『おかしいと思うことはおかしいと記事にする』と息巻いて帰ったよ。こちらも、『おかしいと思うことをおかしい』と指摘させてもらう」。思い当たる節があった。連載『大蔵支配』で、私は国税庁を舞台にした徴税管理システムの不透明さを取材した。一介の出入り業者である銀座の文房具店が、納税者の所得を“名寄せ”する巨大システムを受注したのである。常識では考え難い出来事だった。納税者の所得を正確に知る為、国税庁は納税者番号に代わる『国税総合管理(KSK)システム』の開発に着手した。「所得が発生する取引を氏名・生年月日・住所で名寄せし、個人毎に所得を合算しよう」という計画だ。システム開発は『日立製作所』・『NTTデータ』・『NEC』・『東芝』・『IBM』が分担するが、全体の取り纏めを『文祥堂』という文房具店が担当する。国税庁と長年の繋がりがある業者である。元は用紙の納入業者だが、近頃、事務機器の販売を始め、コンピューターソフトの商売を始めたという程度の会社だ。1000億円を超える事業の元請になって、日立・東芝・IBMという大手を下請けにするというのは摩訶不思議な構造だ。膨大な予算が投ぜられるKSKシステムに、大手企業は涎を垂らしているというのに、応札が文祥堂1社になったことは、もう話がついているということか。国税庁主導の“官製談合”が疑われていた。民間業者等周辺取材を固め、国税庁に事情を質すべく取材を申し入れた。案の定、「お受けすることはできません」という返事。押し問答の挙げ句、国税の広報は「新聞は社会部さんを相手にしている。経済部の取材は受けない」。私は、「言うに事欠いてこれか…」と唖然とした。徴税システムの電算化は、国税庁にとって初めての経験だった。日米貿易摩擦の煽りで、政府調達の開放をアメリカから突き付けられ、KSKシステムにIBMが名乗りを上げていた。日本勢も国税システムに食い込もうと必死だ。そんな中で、「“国税の代理人”として業務を配分し、利害を調整する“元請”が必要と国税庁は考えた」というのが業界の見立てだった。競争入札を装いながら、応じたのは素人同然の1社だけ。国家の徴税システムを顔見知りの業者に請け負わせる国税庁の感覚は相当なものだが、そんな非常識を押し通せると考えるところに、権力の傲慢さを感じた。

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役所取材は、記者クラブを拠点に行われている。新聞社の仕切りでは、大蔵省の記者クラブは経済部、国税庁記者クラブは社会部の領域となっている。国税庁担当の仕事は、企業の脱税や政治家の申告漏れ等、税金に関わる事件報道が中心だ。税務情報には“守秘義務”が課せられ、職員は決して漏らしてはならない。だが、仕事の成果は世の中に伝えたい。“魚心あれば水心あり”で、秘密情報が洩れて紙面を飾ることになる。国税と記者は、協力して不正を暴く同志的関係。そんな取材に慣れている国税庁は、大蔵省そのものに疑惑の眼差しを向ける経済部の取材に戸惑い、撥ね付けたのだろう。「それなら結構、『取材を拒否された』と書きますよ。我々は彼方此方を取材している。あなた方が取材に応じなくても、『おかしいことはおかしい』と書くまでだ」と言って席を立った。国税庁も、「これでは拙い」と思ったのだろう。その後、大蔵省に本籍を持つ“大蔵キャリア”と呼ばれる幹部職員が取材に応じることになり、大事には至らなかった。だが、半年も経たないうちに税務調査が東京本社にやって来た。編集局長や経理担当に再三電話が掛かってきたのは、その前のことである。連載では「批判したら税務署が」という見出しで、ルポライターや小説家の実例を紹介した。「大蔵省に都合の悪いことを書くと税務調査が入る」という話はライターの間で言われてきたが、それが朝日新聞でも起きた。どのケースもそうだが、大蔵省を批判的に取り上げたことと、税務調査の結び付きを立証することは困難だ。多くの企業が税務調査を受けている。新聞社に国税の調査が入ることがあってもおかしくはない。だが、編集局長や経理担当に苦情の電話を入れ、不調に終わった直ぐ後の調査というのは、“権力の濫用”と見えてしまう。ともあれ、税務調査で朝日新聞社の不正が指摘された。職場や個人の飲み食いを接待伝票で処理したり、領収書の数字で“1”を“4”に書き換えるような幼稚な手口も発見された。「おかしいことはおかしいと指摘した」と言われれば、その通りである。朝日新聞は、結果を受け入れるしかない。但し、「摘発された事実が“公表”されることがないよう、お願いした」という。

企業にとって、税務調査で“不正”が摘発されるのはショックだが、それ以上に不名誉なのは“公表される”ことだ。先に書いた通り、税務情報は“秘密”が原則で、国税庁は脱税や申告漏れを発表することはない。メディアに載る特ダネは全て“独自取材”。言葉を変えれば“リーク”である。守秘義務があり、発表も無い。それでも“国税庁の成果”が新聞に載るのは、“組織的な情報漏洩”があるからだ。受け皿がメディアであり、リークネタを巧みに取ってくるのが社会部記者の腕前である。「公表しないで」と交渉するのも担当記者の仕事だが、会社の不祥事が世間に知られることに蓋をすることは、担当記者にとって当局に“借り”を作る形となる。余談ではあるが、国税庁担当が検察担当・警察担当と並び、社会部記者として花形ポストとなっているのは、権力と会社を結ぶ重要なラインに立っているからだ。国税庁には“国税庁キャリア(庁キャリ)”と呼ばれる国税庁採用の幹部職員がいるが、長官にはなれない。長官は財務官僚の指定席だ。税制の企画立案等、政策絡みの仕事は財務省の主局が担当する。国税庁は、税の徴収業務を担当する現業である。政治家や大企業の税務情報を扱うポストは、財務省キャリアが占めている。よく似た組織が警察だ。都道府県単位に警察本部があり、地方採用の警察官が刑事・公安・交通等の現場で活躍しているが、県警の頂点である本部長は警察庁キャリア官僚の指定席だ。汚職や選挙違反等を担当する捜査2課長、公安情報を握る警備局長のポストも、警察庁キャリアが押さえる。国税は“マネー警察”である。銀行から情報を取り、カネの流れを把握できるのが国税の強み。カネ目から人のプライバシーを覗ける。政治家の懐具合やマスメディアの経営状況も手の内にある。必要に応じ、税務調査で痛いところを突くことができる。私が大蔵省を担当していた1979年、後に総理大臣となって消費税を導入する竹下登が大蔵大臣に就任した。その直後のことだった。竹下が5000万円の修正申告をしたことが報じられた。国税当局が竹下の関係する政治団体の資金の流れを調べ、架空名義を使った経理操作を見破り、5000万円を竹下の所得と認定した。「“脱税”で摘発されてもおかしくない意図的な所得隠しだった」と関係者は言うが、処分は甘く、“所得の申告漏れ”として処理された。密かに済まされていた税務処理が“漏れた”のである。大蔵大臣として乗り込んできた政治家をカウンターパンチでお迎えする。“大蔵官僚恐るべし”を印象付ける一撃だった。

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竹下は内心、どう思ったのだろうか。その後の行動を見ると、大蔵官僚と対決すること無く、手を組んで手懐けることで、政治家として力をつける道を選んだようにみえる。政策には関心の薄い政治家だったが、消費税には熱心で、大蔵官僚の信頼は厚かった。「竹下さんは、私たちにできないことをやってくれる。難航する懸案があると、大臣室から彼方此方に電話をして、翌日にはスーッと抵抗が収まる。声高に政策を主張したりしないが、凄い政治家です」。竹下大臣の下で次官を務めた長岡實は、オフレコの懇談で竹下を盛んに褒め称えた。財政再建のキャンペーンが本格的に始まったのは、竹下・長岡コンビからである。竹下は佐藤内閣で官房長官を務めたものの、主要閣僚の経験は無かった。大蔵官僚を味方に付けることで、重要な政策情報を握るようになる。竹下は大蔵大臣を足場に、権力の頂点を目指した。後任は渡辺美智雄だった。達者な弁舌で聴衆の心を巧みに掴むミッチー節は、財政キャンペーンにはうってつけの大臣だったが、大蔵官僚との関係は竹下とは正反対だった。ミッチーは、官僚の掌に乗ることを拒んだ。象徴が秘書官人事だった。財務省に限らず、役所にとって大臣秘書官は、大臣に政策を振りつける重要なポストで、将来が嘱望される有能な中堅官僚が選ばれる。竹下大臣時代に秘書官として仕えた小川是は、国税庁長官を経て大蔵次官になり、千野忠雄は財務官を経て『アジア開発銀行』総裁になっている。大臣秘書官は大蔵省の将来を担う官僚の登竜門で、組織を背負って大臣に接する。渡辺は自分で秘書官を選んだ。大蔵省が差し出す秘書官を拒否はしなかったが、政務担当の秘書官に銀行局の課長補佐だった新井将敬を指名した。コースから既に外れている個性の強い新井を抜擢し、接点に据えたのである。「大蔵官僚の神興には乗らない」という意思表示だった。新井は厚生省に出向していた頃、厚生大臣だった渡辺の懐刀として行動を共にした実績がある。厚生大臣でありながら『日本医師会』と対決した渡辺は、厚生官僚を信用せず、大蔵省から来ていた新井を見込んで重用した。同志関係は、大蔵大臣になって復活した。

渡辺は積極的に若手官僚と接点を持った。新井は課長補佐を中心にした『蔵相を囲む若手官僚の会』を組織し、頻繁に会合を重ねた。組織を背負う課長以上の官僚は相手にせず、「これから使えそうな若手を発掘しよう」という狙いだった。大蔵省は、組織に手を突っ込んできた渡辺を警戒した。衛突は人事で起きた。1982年6月の次官人事で渡辺は、国際金融局長だった加藤隆司を推した。加藤は政策に通じた骨太の官僚だが、次官レースからは外れていた。「トップの人事権を握って力を誇示しよう」という狙いである。確かに、人事権は大臣にある。だが、大蔵省は政治家に人事を触らせないことを伝統としてきた。「人事を政治家に奪われたら、官僚組織は瓦解する」と恐れる。人事に触れさせないことが、大蔵省権力の防波堤なのだ。自民党や官邸へ周到な根回しを行い、大蔵大臣の人事権を封印した。結果、次官には本命とされた主計局の松下康雄局長が就いた。「ミッチーのやり方は、ちょっと乱暴だった。人事は既定路線を崩してはいけない。安定した政策運営ができなくなる」。前次官で大蔵省顧問だった田中敬が、大臣の介入から組織を守ったことを誇らしげに語っていたのが印象的だった。渡辺はその秋、中曽根内閣の誕生で大蔵大臣から外れた。そして、竹下登の再登板となる。竹下は、大蔵官僚の要請を受け、ミッチー人事を阻止した自民党の中心人物と言われていた。秘書官だった新井将敬は渡辺と共に大蔵省を去り、政界に転じた。政治家とつるんで組織に歯向かった官僚は“裏切り者”となり、大臣が去れば居場所は無い。財務省が大蔵省だった頃、官僚たちは「国家の運営は自分たちが担っている」と言わんばかりの自負心に燃えていたが、その裏には政治家への不信感がべったり張り付いていた。その典型が、“史上最強の次官”と言われた斎藤次郎だった。彼が屡々口にした言葉が、「世襲でなるような政治家に、この国を任せておけるか」だった。「政治家を上手に誘導しない限り、この国は危うい」という独善的な責任感が噴き出したのが、細川政権の“国民福祉税”だった。自民党が分裂し、飛び出した小沢一郎らが細川護熙を担ぎ、政権を奪取したのが1993年。大蔵省の事務次官だった斎藤は、この時とばかり小沢一郎と組んで、消費税増税を仕掛けた。「自民党が大店の旦那だとすれば、大蔵省は番頭。旦那がだらしなくても、番頭さえしっかりしていれば店は安泰」――それが大蔵省の考えだった。だが、新しい旦那を差し置いて、番頭が出過ぎた真似をしたのが国民福祉税だった。新政権で協議も無いまま、次官の斎藤が新生党代表幹事の小沢に増税を振り付け、1994年2月3日の未明、「3年後に消費税を廃止し、7%の福祉目的税を導入する」ことを細川首相に発表させた。突然のことに、何も知らされていなかった官房長官の武村正義等が反発し、細川政権は瓦解に向かう。

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「消費税を福祉目的に」という構想は、竹下大臣の頃から大蔵省内で温められていた。高齢社会の到来で、医療・年金・介護等社会福祉の受益者の数はどんどん増え、社会保障経費は数兆円単位で毎年膨張する。「消費税を福祉サービスの水準維持の為に使うなら、国民も納得するだろう」――この考えは、細川政権を経て自民党が再び担ぎ、民主党に政権が移っても“社会保障と税の一体改革”となって増税が決まり、自民党が政権に復帰した現在も受け継がれている。政権が代わり、大蔵省が財務省になっても、「社会福祉の財源として消費税を増税する」という考えは変わっていない。「正しいことを主張しても国民は理解しない。チャンスを捉え、政治家を動かして、政策を実現するしかない」というのが、大蔵省の伝統的な考えだ。国民福祉税がまさにそれだった。自民党が割れ、誕生した細川政権には70%を超える支持率があった。「この人気を利用して増税を決めてしまおう」と勢い込んだ。黒子である大蔵省が表に飛び出し、斎藤次官は“陰の首相”とまで言われた。だが、大蔵省が操った細川政権は僅か9ヵ月で瓦解。代役の羽田政権も短命に終わった。小沢一郎・斎藤次郎のコンビは放逐され、社会党党首の村山富一を首相に据えた自民党・新党さきがけ・社会党による『自さ社政権』が誕生する。この政権で官房長官を務め、後に自民党幹事長になる加藤紘一は、自民党と大蔵省の関係をこんな風に語った。「長期政権が続いていた頃、大蔵省と自民党は相思相愛だった。ところが、政権から滑り落ちると、一緒に寝ていた布団から女が突然抜け出して、あちら側に行ってしまったような気分だった」。大蔵省は「政権に仕えるのが官僚の役目」と言うが、 掌を返したような振る舞いに、「裏切られた」という不信感が自民党に深く残った。橋本政権になって大蔵スキャンダルが摘発され、銀行証券業務を金融庁に切り離した“財政金融分離”も、自民党の“復讐”という側面があったように思う。斎藤次郎は“首謀者”として冷や飯を食わされた。抑々、通常1年交代の次官ポストに2年間就いたのは、斎藤が“大物次官”である証である。退職後は『日本輸出入銀行』や『日本開発銀行』等、政府系金融機関のトップに収まり、軈ては日銀総裁や『東京証券取引所』理事長等のポストが用意されるのが大物の処遇だった。だが、天下り人事を自民党に阻まれた斎藤次郎は、その道を絶たれるのである。

大蔵省が斎藤に用意したのが、社団法人『研究情報基金』の理事長というポストだった。1995年5月に次官を退任した斎藤は、6月に理事長に就任。常勤は建前で、基金の総務部長は「出勤するのは月に数度」とのことだった。それで、「数百万としかお答えできない」という報酬を受け取っていた。同基金は、“研究”とは名ばかりの、大蔵省が管理する業界にカネを出させて運営する天下り機関だ。斎藤の避難場所となった同基金の設立経緯を『大蔵支配』に書いた。すると、記事の登場人物の1人である元銀行局長が、「名誉棄損だ」として私を訴えてきた。設立の経緯は、役所による“集り”とも思えた。バブルの兆しが見え始めた1985年、麻布にある大手銀行の接待施設で、接待役の銀行専務は大蔵省の幹部から同基金の構想を説明され、出資を求められた。その席に、大蔵省側から新旧の秘書課長が出席した。早くから将来のトップを育成する大蔵省では、次官になる人材は、若い頃に官房の秘書課長か文書課長を経験する慣行になっている。銀行等の業界でトップを目指すエリート行員は、将来に備え、秘書課長の頃から関係を持つことが人脈作りの要諦となっていた。後にメガバンクの頭取になるこの専務は、将来が嘱望される秘書課長と懇意になる為の席を設けた。その席で専務は、同基金の構想を聞かされる。後で出資額を提示された銀行は、断ることはできない。「退職後も安定した暮らしを保証することで、現役時代に頑張れる」という役所の論理に沿って、OBを処遇するポストが増産される。同基金は、理事長以下数人の理事・部課長ポスト等、大蔵省の縄張りと再雇用の場を広げる場だった。「官僚の評価は色々あるが、天下りポストを幾つ作ったかは重要な評価基準になっている」と自嘲的に教えてくれた官僚がいた。経済が安定軌道に入ると、新設ポストは増え難い。業界への集りが目立つようになったのは、この頃からだった。私を訴えた元秘書課長は、銀行局長を経て、大蔵省ナンバー2とされる国税庁長官になった人物だった。「事実無根。私は出席していない」と主張した。取材は周到に行っていた。会合に列席した人物から直接、話を聞いていたのである。彼は、会合の御膳立てから事後の折衝まで関わった。日付を書き込んだ秘書課長の名刺を見せてくれた。訴えた元大蔵官僚は、本気で争うつもりなのか。銀行局長としてバブル経済のタネを撤いた責任者の1人と見られていたこともあり、不名誉な情報に神経質になっていたようだ。大蔵省の“集り”が法廷で争われるのは望むところだったが、事態は急転直下、和解した。互いの弁護士が話し合い、書籍にする際に実名を削除することで、訴訟は取り下げられた。取材に応じてくれた人物は、「裁判に出て証言してもいい」と言ってくれた。だが、未だ現役で、金融界で要職に就いている。取材源を法廷に出すことは、新聞社としてできなかった。

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“天下り機関”を作る為、業界にカネを集る大蔵省の姿勢に、軈て表面化する“大蔵スキャンダル”の構図が潜んでいた。1980年代まで、金融行政は“護送船団行政”と呼ばれていた。帝国海軍の頃、南方に向かう輸送船は、敵の襲撃に備え、駆逐艦等が周囲を固めていた。船団がバラバラにならないよう、巡航速度は船足が一番遅い船に合わせていた。戦後の金融行政も同じだった。「“銀行は潰れない”という神話を作ることが、庶民からカネを集める秘訣」と考えた大蔵省は、最も“船足が遅い”、つまり非効率な金融機関でも生きていけるよう制度を作った。預金金利は大蔵大臣が決める。貸出金利は銀行局の行政指導で横並び。開設する店舗の数・場所は、大蔵省の認可が必要。銀行も保険も証券も、経営の根源は大蔵省が握り、頭取人事にも口を出す。規模が小さな地方の金融機関でも生きていける。それは、店舗数や大企業取引のある大手銀行に、“超過利潤”を齎す仕組みでもあった。大蔵省から見れば、「行政の仕組みが大銀行に利益を保証している。その儲けで銀行経営者が高額の給与を取り、多額の接待費を使っているなら、その一部をこちらに回せ」という理屈だ。「本当の経営者は我々だ」という意識が、過剰接待や天下り機関への出資を正当化する。日本の金融は、“企画立案”を大蔵省が担当し、三菱・三井・住友・富士等の銀行が“現業部門”を担当する構造だった。銀行は、常に大蔵省の意向を読まなければならない。使い走りとして飛び回るのが、“MOF担”と呼ばれる大蔵省担当だった。経営中枢である企画部の次長・調査役当たり、30~40代の若手行員が担当する。新聞記者と同じように大蔵省に日参し、課長や補佐と雑談し、時には局長秘書の女性職員を食事に誘ったりしていた。彼らのミッションは、定期的に行われる金融検査の情報を事前に掴むこと、店舗等業務の認可を円滑に進めること、そして他行の動向を掴むことである。1000万円単位の交際費枠を持ち、日常的に官僚と飲んでいた。公務員上級職のキャリア官僚と親交を結ぶことは欠かせないが、それ以上に、“ノンキャリ”と呼ばれる実務に精通した職員に食い込むことは、情報収集に欠かせない。1998年に摘発された大蔵汚職で、2人の職員が自ら命を絶った。2人とも非エリートの実務者だった。逮捕されたノンキャリ職員が情報を漏らした見返りは、住宅ローンの金利の減免だった。

キャリア官僚の中には、日頃の生真面目さを脱ぎ捨てて、ストレス発散したがる人もいて、“大騒ぎできる馴染みの料亭”を持つこともMOF担の仕事だった。話題になった“ノーパンしゃぶしゃぶ”は、係長クラスの若手に人気があった。「一緒に燥いだ後の連帯感が大事」等とも言われていた。「20代でアメリカに留学したが、その頃のクラスメイトがノーベル経済学賞を取った。俺は官僚相手に接待に明け暮れていたかと思うと、複雑な気分」と自嘲的に語るMOF担もいた。この人は、バブルの絶頂の頃、自分の銀行が発行する転換社債を銀行局の役人に取り次いでいた。値上がり確実なる証券を買い、売り抜ければちょっとした財産ができる。それも“役得”と、官僚は心得ていた。そうした役得意識を体現したのが、不当な蓄財がバレて大蔵省を追われた元主計局次長の中島義雄である。“タニマチ”と呼ばれる如何わしい支援者を何人も抱え、金銭を受け取っていた。『東京国税局』が調べただけでも、5年間で1億2000万円の職務外収入があり、低利融資を含めると2億円になった。経営コンサルタントや居酒屋チェーンの経営者等、事業を広げる野心家が中島に接近してカネを渡した。付き合いが始まったのは、主計局で厚生労働担当の主計官だった1985年頃である。大蔵省が業界に基金の出資を頼んだのも1985年だった。バブル経済の匂いが漂い、“財テク”が持て囃され始めた頃である。日本の小型乗用車がアメリカ市場を席巻し、アメリカの社会学者であるエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(TBSブリタニカ)が話題になり、人々は日本の成功に酔っていた。政界は相変わらず“政治とカネ”で右往左往している。それなのに、日本は“黒字大国”になった。官僚は、「自分たちの国家経営が成功した」と思ったのだろう。「有能な俺が、公務員給与に甘んじて世の為の仕事をしているのだから、役得があってもおかしくはない」と考えたのは、中島だけではなかった。大蔵省は1998年4月、銀行局審議官の杉井孝を停職、証券局長の長野厖士らを減給とし、計112人の処分を決めた。これに先立ち、東京地検は接待汚職を摘発し、キャリア官僚を含む7人が逮捕され、自殺者も出た。相前後して、『山一證券』や『北海道拓殖銀行』の破綻、そして『日本長期信用銀行』を始めとする金融破綻の激震が走った。坂の上の雲を追うように、先進国をお手本にすれば行政ができる時代は終わった。護送船団行政に象徴される統制経済は、今の中国と変わらない。社会主義市場経済は、資本主義統制経済と裏表である。大蔵権力の源泉は許認可と予算。選挙で選ばれた訳でもない大蔵官僚は、中国共産党指導部と似ている。許認可や予算をカネで買おうとする輩が周囲に集まるのも、中国と同じだ。判子代が賄賂や接待だ。大蔵官僚は、中国の党官僚より腐敗の程度はマシである。それは、役所の体質というより、日本人の国民性に救いがあったのではないか。高度成長時代が終わり、“お手本”が無くなった。前例踏襲を良しとする優等生が率いる時代は終わったのだろう。国の針路が見えなくなったエリートは、享楽に身を委ねて自滅した。大蔵省最後の宴だった。


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