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【終戦その時】(中) 無謀な作戦、軽い命

20190830 05
暗い海に犇めく艦影を月が浮かび上がらせた。昭和20(1945)年5月、高橋淳さん(96、東京都町田市、右画像)が操縦する一式陸上攻撃機は、鹿児島県の出水基地を離陸し、沖縄近海のアメリカ軍艦に迫っていた。操縦かんを押し込み、海面から僅か3~5mまで高度を下げる。無数の機関砲の弾が向かってきて、5人の搭乗員を乗せた機体を掠める。「無駄死にしてたまるか」。約1000mまで肉薄し、魚雷を投下。安全圏に離脱した時は、全身が汗でぐっしょり濡れ、声も出せなかった。出水基地には約20機が配備されていた。しかし、沖縄戦が終結した6月23日、残っていたのは自機だけだった。一式陸攻は装甲が薄く、被弾すると直ぐ火だるまになる。アメリカ軍は“ワンショットライター”と揶揄していた。「一度出撃すると、半分は帰って来られない。皆、いなくなっちまった」。東京都出身。小学生の頃、遊覧飛行で乗った飛行機から見た景色に魅了された。パイロットを目指し、18歳で海軍の練習生になった。その2ヵ月後に太平洋戦争が始まり、戦場に駆り出された。

中部太平洋のトラック諸島や、フィリピン南部のダバオ基地から魚雷を抱いて出撃を繰り返した。「魚雷が命中しなければ体当たりをしてこい」と叫ぶ上官を尻目に、「必ず生きて帰る」と決意していた。搭乗員には「遺書なんて書くなよ」と言い続けた。終戦は突然訪れた。出水基地を離陸し、本土決戦に備えて北海道に向かう途中の青森県で8月15日を迎えた。玉音放送は音質が悪く、その時は激励の放送だと思った。敗戦を知ったのは宿泊先だった。「これで助かった」。安堵の気持ちがこみ上げてきた。「本土決戦で再び出撃すれば、もう終わりだと覚悟していたから」。戦後は平和な空で腕を生かした。元戦闘機の搭乗員らが設立した社団法人『日本飛行連盟』に参加し、多くのパイロットを育てた。1963年には『日本赤十字社』と連携して、災害救助を支援する『赤十字飛行隊』を発足させ、1964年の新潟地震では道路が寸断された被災地に物資を空輸した。現在も隊長を務め、後輩に経験を伝えている。91歳になった2014年には“世界最高齢のパイロット”としてギネス世界記録に認定された。今も週に1度は軽飛行機で空を飛ぶ。一式陸攻で飛んでいた時も、空から見る光景は美しかった。南太平洋では海の青さに、夜間飛行中には星の輝きに心を奪われた。だが、戦闘中の夢は一度もみたことがない。“異常な体験”として、心の奥底に閉じ込めているからだと思う。戦争について語る時、口調には怒りが滲む。「人生で一番嬉しかったのは、終戦を知った時だ。どう考えても勝てっこない戦いで、無謀な作戦が繰り返された。本当に命が軽い時代だった」。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2019年8月12日付掲載
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テーマ : 社会ニュース
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Author:George Clooney

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