「私の母は軍艦島の遊女でした」――幻の軍艦島遊郭50年目の新証言

「母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね」――。長崎県佐世保市のファミレスで話す小田美枝子さん(69)は、こちらが拍子抜けするくらい臆することなく、母親が軍艦島の遊郭で働いていたことを証言してくれた。この時、閉ざされていた歴史が動いた! (取材・文/フリージャーナリスト 酒井透)

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取材で入手した“端島美人連中”の写真。地元の郷土史家お墨付きのもので、軍艦島の遊女が写っているとされる。一番右上が小田美枝子さんの母親と思われる女性。身嗜みもしっかりしている。

上に掲載した“端島美人連中”と書かれている写真を見つけてから暫くして、軍艦島(端島)の元島民の方から信じられないような情報が齎された。「遊女の娘さんがおるから、会いに行ってみるとよか!」。この情報を教えてくれた方とは、これまでに何度も会っていた。全く考えてもいなかった展開だった。“遊女の娘さん”という方に会うことができたのは、それから数ヵ月後のことだった。長崎県佐世保市内にあるファミリーレストランで待ち合わせて、話を伺った。「私、本当の両親の顔も何も知らないんですよ…」。土曜日だったということも手伝って、夫を伴って現れた女性は、席に座ると、このように話し始めた。小田美枝子さん(69)。昭和21(1946)年に佐賀県佐賀市で生まれた。「私は、生まれて直ぐに養子に出されたんです。そこが軍艦島でした。“両親”は子供を持っていませんでした。父のほうに問題があったのでしょうね。母が遊女をやっていたことを知ったのは、私が中学生の頃でした。『(本当の)両親に会いたいか、知りたいか…」と聞くので、その時に教えてもらったんです」。小田さんに会う前、電話では少し話を伺うことができたが、本当に会えるかどうかについては一抹の不安があった。何故ならば、本人にとっては、隠しておいてもいいような過去を表に出すことになるからだ。しかし、そのような心配をする必要はなかった。「私は、子供の頃から母に虐待を受けていました。箱火鉢で使っていた火箸の後端部分で殴られたこともあります。艾を押し付けられたこともあります。怒ると斧なんかを投げて、食器を割るようなこともありましたね。昼間から焼酎を飲んでいましたよ。近所の人たちはそれを知っていたので、何度も余所の家で過ごしました。実は、私の前にもう1人養女がいたのですが、2歳で亡くなっているんです…。虐待が原因だったようです。近所の人たちは、母のことを“鬼”と言っていましたね。『貴女を貰ったのは、(年を取ってから)自分の面倒を見てもらう為だったのよ!』と言われたこともあります。18歳の頃には、ちょっと島に戻った時に、5階から投げ落とされこともあるんです。それに対して、父は仏様のような人でした。子供が大好きだったので、可愛がってくれましたよ。母は、父が56歳の時に肺の病気で亡くなってから、島を離れました。その後、2度再婚をして72~73歳で亡くなっていたと思います。写真は1枚も持っていません。母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね。10代の頃だと思います。その前は、佐世保の食堂で働いていたそうです。父は五島(列島)の福江の出身で、教員をしていたみたいですね。軍艦島の炭鉱では、三菱の社員として、30年くらい石炭を掘る仕事をしていたと思います。父が(当時のお金で)100円を払ったことによって、母は(“遊郭”から)請け出してもらうことができたんです。遊女を辞めてからは、ずっと家で過ごしていました。母は、いつも自分のことを“俺”と言っていましたね。趣味はパチンコで、島でもやっていましたし、長崎にも遊びに行っていました。煙管も吸っていましたね。家のことは何もしませんでした。トイレ当番もやらないので私がしていましたし、洗濯も自分のものだけしかしませんでした。お菓子なんかは、私に食べられたくないので、天井から紐で吊していましたよ。でも、着物は一杯持っていましたね。洋裁・編み物・料理は上手かったですね。自分でパーマをかけることもできましたし、布団の打ち直しをすることもできました。どこで覚えたのでしょうか、器用だったです。昭和37(1962)年に亡くなっている筈ですが、今生きていたら100(歳)は超えているでしょうね」。

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小田さんは、何事も隠すことなく、ハキハキと話してくれた。母と一緒に軍艦島で暮らしていたのは、中学校を卒業した15歳までのことで、長崎市内にある美容学校に入学すると、そこに住み込んで生活をするようになった。その後、美容師となると、19歳の時に長崎市内に住む男性と結婚した。この結婚式には母も来てくれたという。それにしても、小田さんから聞く話は、これまで想像していた遊女のイメージとは大分かけ離れたものだった。昭和8年1月の長崎新聞が、“遊郭”のことについて次のように触れている。「県会議員本田伊勢松氏の経営する料亭本田屋が多情多彩の情緒をもって炭粉にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」。これを読む限り、遊女たちはユルリとした生活を送っていて、温和な性格を持っていたように感じられる。そう考えると、小田さんの母は、また別の気質をしていたのかも知れない。一通り話を聞いたところで、『端島美人連中』と書かれている写真を見てもらった。「こんな写真があるんですか。どこで見つけられたんですか? 大分、古い写真ですね。母は背が低くて痩せていましたが、鼻は大きくて団子っ鼻でした。ブルドッグみたいな顔で、淡谷のり子のような感じでした。あら、この人は太っていますが、母に良く似ていますね…」。小田さんは、ビックリしたような表情で見入っていた。母に良く似ているという女性は、後方の一番右に立っていた。母のことは嫌いでも、心の中では何かを欲していたのかも知れない。小田さんの母が今でも生きているとして、今年100歳とすれば、大正4(1916)年の生まれということになる。この写真が撮られた時は24歳くらいだろう。ここに写っていたとしてもおかしくはない。

小田さんを紹介してくれた長崎市在住の元島民の男性も、“遊郭”についての記憶がある。「私は、昭和19(1944)年に端島で生まれたとですけど、物心ついた時には、堤防を歩いて行って、遊郭の中を覗いていたとですよ。冷やかしに行った訳よねー(笑)。“本田”は木造の2階建てだったとよ。当時は売春防止法が制定される前だったから、売春は合法よね。ブローカーを通じて、ここに来ていたんでしょうねー」。この男性は“遊郭”の中に入ったことはないが、子供心に興味を持っていたという。それでも、証言としては貴重なものだ。「母は(長崎県の)平戸の出身です。今、どこに眠っているのかはわかりません。姉は平戸市の田助町というところに住んでいましたので、そこに墓があるかもしれませんね。恐らく、故郷は平戸市の紐差町というところです。私は行ったことはありませんが、平戸から然程遠くないところにあります」。小田さんに会った日の翌日、その紐差町に行ってみた。平戸市内から国道383号線を南下していくと、幾つかの峠を越えたところで同町が見えてきた。この町の中心部には白亜の教会が立ち、その周りには民家が広がっていた。そして、国道沿いにはショッピングセンターやガソリンスタンドがあった。町中には小学校・郵便局・床屋・カラオケボックス等もあり、思っていたよりも大きな町だった。軍艦島で遊女として働いていた小田さんの母が亡くなったのは、今から50年余り前のことになる。これ以上、彼女の足取りを追うのは難しいかもしれない。しかし、未だどこかにそのきっかけが残されていることを信じたい。

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■教科書が絶対に教えない軍艦島遊郭の封印された歴史
昨年7月、『明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」(8県11市に跨る23の構成資産で構成)の1つとしてユネスコの世界文化遺産に登録された軍艦島(長崎県長崎市端島)。この冬も長崎港等から発着している軍艦島上陸観光クルーズ船は、予約が殺到し、ほぼ満席の状態が続いている。軍艦島への上陸者数は、2009年4月に観光上陸が“解禁”されてから、ほぼ右肩上がりの状態が続いているが、上陸できる時間は、どの業者も1時間程度と限られている。こういった短い時間で各社のガイドは、工夫を凝らした説明をしているが、この中で、観光客の心を打っているものの1つに、“遊郭”に関する件がある。今から41年ほど前の昭和49(1974)年、軍艦島にあった炭鉱(『三菱石炭鉱業株式会社』高島破業所端島砿)が閉山すると、島は無人島となった。その後、“遊郭”についての調査は行われていないこともあり、明らかになっている部分は極僅かだ。しかし、取材を進めるにつれて、歴史の闇間に消え去ろうとしていたものが、少しずつ明らかになってきた。最初に見て頂きたいのが、“端島美人連中”と書かれている写真だ。これは、軍艦島に関する取材を長崎で進める内に偶然見つけたものだが、ここに映っているのは、往時、“遊郭”で働いていた女性たちと考えられている。薄化粧をして並んでいる16人の女性は、全員が和服で着飾り、その中には髪を結っている女性もいる。どことなく、主婦として生活している人にはない煌びやかさを放っている。長崎市高浜町で暮らしている郷土史家の男性に話を聞いた。「“端島美人連中”と書かれているのは、嘗て、軍艦島にあった遊郭で働いていた女性を撮ったものと考えられます。この写真は、昭和15(1940)年の皇紀2600年に軍隊によって撮影されたものとされています。当時、長崎半島では、皇紀2600年に合わせて、其々の集落で記録写真を撮っていたようです。その中に軍艦島も入っていたということになります。私が知る限り、遊郭で働いていた女性の写真は、この1枚だけになります。非常に貴重な記録ですね。その時に撮られた写真は、冊子にして各集落の人たちに配布されています。今でも持っている人が数人いますよ」。この冊子の表紙には、“出征将兵慰問 郷土写真集”という見出しが付けられている。

軍艦島で撮られた他の写真を見ると、男性が写っているものに関しては、“端島在郷軍人分会”“端島国民学校職員”“端島炭鉱労務職員”等といったキャプションが添えられている。また、女性が写っているものに関しては、“端島愛国婦人会”“端島購買職員”等とある。“端島美人連中”というのは、実にユニークな表現だ。彼女たちが一般的な仕事をしているのであれば、それをありのままに書けばいいのだが、“美人連中”という表現を使って濁している。いつ頃、軍艦島に“遊郭”ができたのかはわかっていない。それでも、売春防止法が発布された昭和31(1956)年まではあった。『本田』と『森本』が日本人用のもので、『吉田』が朝鮮人専用のものだった。終戦後、直ぐに無くなった『吉田』の経営を任されていたのは朝鮮人だった。“遊郭”は同島の南西部にあり、そこで働いていた女性は「1軒に9人、全部で27人だった」という説もある。更に時代を遡ると、大正時代には島の最南部にあった。元島民によると、“遊郭”は「単独の遊女屋的なもの」だったという。19世紀の初頭頃から石炭採掘が始まり、戦時中も休むことなく海底奥深くから石炭を掘り続けていた軍艦島は、日本の復興と経済発展の為に、戦後も24時間体制で採掘を続けていた。長崎市内から約18.5km。南北約480m・東西約160m・6.3ha余りの島には、多くの人たちが暮らし、昭和34(1959)年には人口が5000人を超えてピークを迎えたが、政府のエネルギー政策の転換によって昭和49(1974)年に閉山。全島民が島を離れている。

■一般的な遊廓と軍艦島の遊郭の違い
現在の長崎市丸山町や寄合町のことを指す“丸山”という地には、寛永末頃から昭和31(1956)年にかけて栄えた花街があった。寛永末頃の集娼制度設立によって、市中にあった遊女屋を寛永19(1642)年にここに集めたのが始まりで、往時、外国人を対象としたものとしては唯一のものだった。それに対して、軍艦島の遊郭は一般的なそれとは異なり、三菱の社有地の中にあった為、会社によっても管理されていた。遊郭に足を運ぶのは専ら、“組”と呼ばれていた下請けの男たちで、鉱業所等で働く三菱の社員は行くことは無かったとされている。下請けの男たちは、島の最南部にある30号棟に住んでいたことから、歩いて5分もかからずに遊郭に行くことができた。

■遊郭の“経営者”本田伊勢松とは?
軍艦島にあった日本人用遊郭『本田』の経営者であり、長崎県の県会議員だった本田伊勢松は、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年までの間、高浜村(現在の長崎市)の第16代村長を務めていたと考えられる。長崎半島のほぼ中央部に位置している高浜村から、洋上に浮かぶ軍艦島までの距離は4kmほどで、その昔から両者間の結び付きは強かった。高浜村で採れた新鮮な青果等は、同村で暮らしていた行商のおばさんたちによって、軍艦島に運ばれて売られていた。本田伊勢松がこの地で生まれ育ったとするならば、軍艦島のことは知り尽くしていたものと考えられる。

■解体後はどうしたのか?
軍艦島に遊郭があったのは昭和31(1956)年までで、同年8月に接近した台風9号の影響によって、木造造りだった建物は完全に倒壊してしまった。その後、復旧作業が進むと、この場所には昭和32(1957)年に鉄筋コンクリート造り・6階建ての鉱員社宅である31号棟が建てられた。クリーム色をしたこの建物は、堤防のカーブに沿うような形で“く”の字に曲がっていて、堤防と呼ぶに相応しい外観を兼ね備えていた。また、同棟には郵便局・理容店・共同浴場等も入っていた。


キャプチャ  第31号掲載


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