【現代中国・繁栄か滅亡か】(04) 中国人よ、大国になりたいなら“中華思想”を捨てよ

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所謂“中国史”に対して、モンゴル出身の筆者は少なからぬ違和感を覚えてきた。曰く、古代より広大なアジア大陸に、他とは隔絶した高い文明を築き上げてきた漢民族。その豊かさ故に、屡々北方から、戦争は強いが“野蛮な”遊牧騎馬民族が襲来し、一時的には彼らが支配者となるが、圧例的な漢文明によって“漢化=文明化”されるとアイデンティティーを失っていく。斯くして王朝の主は変わりはするが、偉大な中華文明の輝きは普遍的、且つ不変のものとして受け継がれてきた――。ざっとこんなストーリーだ。中国人ばかりか、日本でも大枠でこうした“中国史”を学んできた人は少なくないのではないだろうか。しかし、こうした“中国史”は、謂わば中国人の“願望”を述べたものに過ぎず、実際にあの地域(以下“シナ地域”と呼ぶ)で起きた歴史とは大きく異なっている。抑々、黄河文明・長江文明等の古代文明がシナ地域で興ったのは事実だが、考古学による研究が進むにつれ、その古代文明と現在の“中国人”とでは、文化的にも人種的にも断絶していることが明らかになっている。現在のギリシャ人が古代ギリシャ文明とは直接繋がっていないのと同様である。

更に言えば、ユーラシア史という観点からすると、“中国史”が蛮族と位置付けてきた遊牧民族が、東はシべリアから西はヨーロッパ世界にまで広がり、文化的・人種的にも混じり合いながら世界史を動かしてきたのに対し、“漢文明”が広がり得た地域は、華北地方の所謂“中原”を中心としたローカルな地域に止まったと言える。現在では中国で最も経済的に発展している南部の長江流域でさえ、5~6世紀の南北朝時代になって、やっと本格的な開発が始まったほどだった。“漢文明”は普遍的な世界文明の1つというよりも、ローカルな地域文明だと考えたほうが実態に近いのではないだろうか。そしてもう1つ、“中国史”の大きな問題点は、それが一種の“被害者史観”となっていることだ。つまり、「漢民族は常に異民族からの侵略に曝され続けてきた」というストーリーである。近代以前は北方の遊牧民族、近代以後は海を乗り越えてやって来た西洋列強、そして日本が、その“敵”に擬せられてきた。しかし、よく考えてみれば、国民国家成立後の近代ならばまだしも、それ以前において「シナ地域がある特定の民族のものだった」という主張は成り立たない。様々なルーツ・文化・生活形態を持つ集団がダイナミックに流動し、繁栄と変容を繰り返してきたのが、事実としての“中国史”なのである。筆者の考えでは、所謂漢民族中心の“中国史”は、彼らのローカルな(でありながら「自分たちは普遍的だ」と考えている)世界観と、被害者意識の混合物に他ならない。そして重要なのは、現在の中国において、こうした“漢民族中心主義”が益々強まっていることである。彼らは“漢民族”ならぬ“中華民族”を標榜するが、勿論、これはモンゴル、チベット、ウイグル等の民族問題に配慮した政治的な言い換えに過ぎない。現在の中国が抱える深刻な民族問題や外交上のトラブルの多くは、他民族・他文化・宗教への不寛容(及び関心の低さ)の表れだと言える。そして、その背景にあるのは、中国を“漢民族を天下の中心・世界の中心と見做す”、所謂“中華思想”なのだ。事実、シナ地域の歴史を辿れば、ユーラシアに跨って交易を行い、国際的な文化が花開いた時期がある。例えば、日本との交流も盛んだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清等の繁栄は、まさにアジアの大帝国と呼ばれるに相応しい。だが、これらは何れも非漢民族による征服王朝なのだ。

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例えば、6世紀の終わり、300年ぶりにシナ地域を統一した隋は、北方遊牧民の1つである鮮卑系の王朝だった。それが漢人編纂の後の史書では、「後漢の名臣、楊震の子孫である」と“漢化”されて伝えられてきたのである。隋に続く唐も鮮卑系で、首都の長安は東アジアだけでなく、シルクロードを介して西方から様々な人々が訪れ、商業活動や文化活動が展開された。唐が国際的な大帝国となった原因の1つは、「実力があれば、民族や宗教等に関係なく登用する」という寛容さにあった。遺唐使として渡った阿倍仲麻呂が唐王朝で官僚として重用され、李白・王維といった1級の文化人と親しく付き合ったのも、その一例である。8世紀半ば、唐の滅亡の遠因とも言われる『安史の乱』を起こした安禄山(北方3州を司る節度使)や史思明も、共にソグド人(ペルシャ系)と突厥の混血だった。こうした国際性は、文化にも大きな影響を与えている。その代表的な例が唐詩である。岡田英弘氏の研究によれば、唐詩にはアルタイ語系の影響が強く、その韻律の導入によって非常な発達を遂げたという。抑々、“詩仙”と呼ばれた李白(左画像)自身、テュルク人(トルコ系)であった可能性が高い。また、“詩聖”の杜甫にも、「遊牧民の天幕で酒を飲んで、テュルク風の踊りを楽しむのが大好きだ」という詩があるほどだ。元に至っては、中国の王朝というよりも、モンゴル帝国の一部として考えたほうが実態に近い。チベット仏教・ペルシャ等中央アジア経由のイスラム教・ネストリウス派のキリスト教等も、モンゴル王朝の下では共存し、大きな広がりを見せた。文芸の面でも、“元曲”と呼ばれる戯曲がピークを迎え、この時期に『西遊記』・『水滸伝』・『三国志演義』等の原型ができたとされている。また、宋代に行われていた言論統制が元朝になると殆ど無くなった為に、様々な古籍が次々に印刷され、中国史上、質量共に最大とされる出版文化も花開いたのである。清もまた、満州族の王族がモンゴル族と共にシナ地域を統治した、遊牧民族による王朝だった。多民族・多宗教政策にも力を注いだ為に、漢民族の王朝では手が出せなかったモンゴル、チベット、ウイグルを版図に収め得たのである。『康熙字典』・『古今図書集成』・『四庫全書』の編纂等の文化事業でも、傑出した成果を上げたことはよく知られている。こうして見てくると、漢民族中心主義ではなく、異民族による国際主義によって統治された時代こそ、中国が最も栄えた時代だということがわかるだろう。

話は再び“中華思想”に戻る。この漢民族にとっての拠り所であると共に、足枷でもある思想は、どのように形成されてきたのだろうか。筆者の考えでは、古代中国の都市国家において成立した“原・中華思想”と、その後、遊牧民族及び西洋近代との緊張関係の中で形作られた(そして歪められた)“コンプレックスとしての中華思想”に大きく分けられる。先ず、古代のシナ地域、殊に中原と呼ばれた華北の高原地域では、農耕を基盤として、四囲を高い城壁で囲い込み、外敵の侵入を阻む都市国家が成立した。「城壁の内側こそが“天下=世界”であり、外側には非文明・非文化的な荒野が広がっている」というイメージである。これが“原・中華思想”だ。ここで重要なのは、こうした都市国家には“国境”という概念が存在しなかったことだ。例えば、日本のように山河の起伏が深い地域では 山や川、若しくは海が自然の国境となる。その為、日本人の根底には、「この川と山を境に、自分たちが住むムラと、向こう側の別のムラが存在する」という地理的環境に基づいたアイデンティティーが生まれる。しかし、古代中国の高原地域では、そうした自然的国境の概念に乏しかった。「遍く天下は全て王土である」という表現があるように、人口や富が増加し、強い権力や高い軍事力を持つ指導者が出現すると、“国土開拓”と称して、壁をどんどん外側へと拡張していく。一方で、王の力が弱ければ支配範囲を限定し、城壁の規模を縮小させる。国境とは飽く迄も人工的なものなのだ。こうした考え方は、今の中国人にも共通している。例えば、世界各地に存在するチャイナタウンは、城壁都市国家の現代版だと言っていい。現在、アフリカのインフラ投資を積極的に行っている中国だが、そこでもアフリカの現地民を雇用するようなことはしない。低所得層の自国民を大量に外国に連れて行き、そこで働かせている。これも、「どこであろうと人工的に囲われたエリアに集団で住み着けば、そこは自分たちの土地になる」という城壁都市的発想なのだ。つまり、彼らにとって国境とは、国力が高まれば自由に変更可能なものなのである。近年、盛んに行われている南シナ海への進出についても同様で、若しも「九段線までは自国の領海だ」という主張が通れば、次は当然のように「マラッカ海峡までが中国だ」と拡張していく筈である。何故なら、中華思想に基づけば、「遍く“天下=世界”は“王土=中国領”である」からだ。

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尤も、「自分たちこそが世界の中心だ」という自文化中心主義は、ある意味、世界のあらゆる集団でみられる一般的な考え方だとも言える。だが、“中華思想”が厄介なのは、それが他民族との接触によって大きく歪んでしまったことだ。端的に言えば、遊牧民族との間での度重なる敗北の中で、現実を否認して、「自分たちは敗れたが、野蛮な敵よりも文明的であり、優っている」――これが更に嵩じて、「自分たちは文明的で優った民族だから、野蛮人に負ける筈がない。現実のほうが間違っている」という虚構を作り上げてしまったのである。近代以降は、その“敵”が西洋列強並びに日本に置き換えられた。筆者は、中国と周辺民族との関係を理解する上で、近代以前については梅棹忠夫『文明の生態史観』、近代以降については川勝平太『文明の海洋史観』(何れも中央公論新社)が打ち出した理論的枠組みが有効と考えている。この2つの理論は、何れも「何故日本とヨーロッパだけが近代化に成功したか」という問いへの挑戦なのだが、筆者はこれをひっくり返して、中国を理解する為に使おうと思う。先ず、梅棹理論からみていこう。そこでは、新大陸を除く世界が第1地域と第2地域に分けられる。第1地域が日本とヨーロッパであり、第2地域がユーラシア及び北アフリカである。この内、古代において帝国を形成し、文明が発達したのが第2地域だ。第1地域は「全然問題にもならない」辺境に過ぎない(ギリシャやローマの地中海文明は、西欧文明とは「べつのものだとおもう」とさ れている)。そして第2地域は、気候的に中央に巨大な乾燥地帯があり、古代文明はその乾燥地帯か、その周りのサバンナで発展した。問題はここからだ。梅棹は、「乾燥地帯は悪魔の巣だ」と断じる。その中央からは、遊牧民を主流とした破壊的な暴力を振るう集団が現れ、第2地域で暴れ回る。その結果、「建設と破壊のたえざるくりかえし」が起き、近代化という「あたらしい革命的展開」に至るまで成熟することができない。それに対し、第1地域は「めぐまれた地域だった」。中緯度温帯・適度の雨量・高い土地の生産力と並べ、梅棹が強調するのは、「なによりも、ここははしっこだった」こと。従って、「“中央アジア的暴力”がほとんど及ばなかった」というのである。

梅棹史観の大きな特徴は、人間の歴史を、自然界におけるサクセッション(遷移)という概念で捉えていることだ。遷移とは、植物や動物等で構成される生態系が、相互作用によって、時間の推移や状況の変化に応じ、最適な生活様式を変えていくことである。それによって、「古代では最適な環境だった第2地域(中国等)に代わり、第1地域(日本やヨーロッパ)が優越した」と論じたのだ。梅棹理論はこの後、様々な発展を示すが、ここで筆者は、“中央アジア的暴力”と表現された遊牧民族と中国との関係を論じてみたい。実は、筆者は生前の梅棹氏に直接、こんな質問をしたことがある。「私はモンゴルの出身なのですが、梅棹先生は遊牧民族の文化・生き方を実際に調査し、高く評価しているのに、何故“悪魔の巣”とか“ものすごくむちゃくちゃな連中”と表現するのですか?」。その時、梅棹氏は京都弁で「いやぁ、あれはパワーや」と答えてくれた。中々絶妙な答えである。では、遊牧民族の“パワー”とは何だったのか? 先ず、具体的に思い浮かぶのは軍事力だろう。中華思想の色眼鏡で見てしまうと、“遊牧民族の軍事力=野蛮で粗野で乱暴”というイメージが固まってしまうが、実際には大きく異なる。軍事力とは、その当時の科学技術・社会システム・集団としての結束力・情報収集能力等、多種多様な要素の総合体なのだ。例えば、今の世界で最強の軍隊を持つのは疑いなくアメリカだが、その強さを支えるのは彼らの科学技術・経済力・政治力等の総合的なパワーである。遊牧民族の“強さ”を支えた技術の内、最も重要なものは“アニマルパワー”である。一言で牧畜といっても、自然に放置しておけばいい訳ではない。馬・牛・駱駝といった大型動物を飼い慣らし、育成し、管理する技術は、それ自体が高度な文明だった。遊牧生活で重要なのは、遊牧に適した土地を探し、他の集団に先駆けて移動することだ。馬・牛・駱駝らは、広域での移動における駆動力を齎すことになった。また、青銅や鉄製の武器も、アニマルパワーを使えば容易に運搬できる。馬車の利用でも、西アジアはシナ地域に先行しており、段々と東に伝わったことがわかっている。更に大きいのが情報力だ。遊牧は農耕に比べ、気象等の環境の変化がダイレクトに影響する。その為、土地の状況等の情報の精度が死活的問題となる。一定の地域に留まる農耕民族と比較すると、遊牧民は様々なエリアを移動して見聞や調査を繰り返す為、より広大な地域の情報を手にしていた。

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その意味では、遊牧民のほうでも“世間が狭い”農耕民を軽侮する傾向があったことも事実である。その情報力は通商にも生かされる。運搬能力が高く、様々な地域を行き来する遊牧民は、優れた商業民でもあったのだ。また、有力な集団が現れると、挙ってそのメンバーに潜り込む要領の良さも求められた。ペルシャの歴史家で、モンゴル帝国の宰相となったラシードウッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニーは、『集史』の中で「ステップの連中は皆、法螺吹きになった」と記している。「ユーラシア地域でモンゴルが強大な帝国となると、一帯の遊牧民は皆がモンゴルを自称するようになった」というのだ。同様に、テュルクが強大であればテュルクを自称する。ペルシャ人からすれば、「何と都合のいい法螺吹きだ」と思えたのだろう。しかし、遊牧民にとっては特別なことではない。その時、自分たちの価値観に適った統治システム・生活様式・道徳観念等を備えた集団が出現したら、血統や出身地域等関係なく、その一員に加わるのが遊牧民の生き方なのである。また、受け入れる側もオープンにそれに対応する。だから、モンゴル人の集団にテュルク人やチベット人、もっと言えば漢民族やペルシャ人、ヨーロッパ人や日本人が加わっても何の不思議もない。軍事力や情報力、そして流動性の高い組織原理。これが遊牧民のパワーであり、農耕民にとっては破壊的な脅威でもあったのだろう。扨て、ここまで中華文明について批判的に論じてきたが、古来、シナ地域の農耕民が高い文明を築いてきたことは言うまでもない。漢字という表意文字を発明し、元々違う言葉を話していた異なる都市国家間でのコミュニケーションを可能にし、儒教を始めとする様々な思想を生んだ。豊かな農業生産を基に、青銅器等先進的な文物も残している。そうした高い文明を自負していただけに、遊牧騎馬民族に敗北を喫した時のダメージは大きかった。1つ典型的な例を挙げるならば、1004年、北宋と契丹人の王朝である遼との間に結ばれた『澶淵の盟』である。この時、華北に攻め込まれた宋は、毎年、絹20万匹と銀10万両を遼に支払うことで和議を結んだが、これは、王朝の正統性に拘る漢人にとって屈辱的なものだった。

その結果、飽く迄も自分たちの王朝を正統と言い通し、遼・西夏・金といった北方民族の王朝を“夷狄”と貶める“敗者のコンプレックスとしての中華思想”が表出されるようになったのである。それは先ず、文字の上に表れた。“東夷北狄西戎南蛮”という言葉は古代からあったが、遊牧民を指し示す漢字に“けものへん”を頻繁に用いるようになる。また、地名にも中華思想的な表現が大量に用いられることになった。例えば“定南”は、その文字が示す通り“南を定める”、つまり“征服した”という意味。同様に“定東”や、“西を鎮める”という意味の“鎮西”等があるが、興味深いのは、何れも実態に即していなかったことだ。当時、未だ支配の及んでいない地域に勝手に名称を付けているに過ぎず、つまりは、言葉によるバーチャルな支配が先行しているのである。このように、事実から目を逸らし、「自分たちに都合のいい願望を一方的に表明することで優位を確立しよう」とする心性は、今にも繋がる“中華文明”の宿痾となってしまった感がある。それは、歴史との向き合い方にも表れている。つまり、事実に向き合うのではなく、自分たちの都合のいいところだけ取り込むのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、「偉大な漢民族にとって隋唐時代が最も華やかな王朝であった」とか、「元朝は中国が最も強大な領土を保有した時代だ」と平気で語る。そればかりか、「チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、今も自分たちの領土の筈だ」と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。思想の面では、中国において、自分たちにとって心地よい願望と現実との混同に大いに利用されたのが、儒教だった。例えば、日本人が愛読し続けてきた『論語』。そこで孔子の語る教えは、確かに高い倫理・強い責任意識等、尊重し学ぶに足るものだろう。そして素直な日本人は、「中国とは皆、論語に描かれたような理想的な世界観や高潔な生き方を実践している“聖人の国”である」と長年思い込んできた。しかし、中国の実態はまるで違う。漢字の学習は難易度が高く、シナ地域でもこれを自在に操れる者は稀だった。その為、論語を理解するのは極一部の読書人階層に過ぎない。抑々、孔子の唱えた政治思想は、彼の生前、どこからも受け入れられず、諸国を放浪する他なかった。つまり、実践されることのなかった理想の世界を語ったものなのだ。

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中国の現実は、常に儒教の教えよりも遥かに苛酷であり続けた。しかし、その現実との乖離が却って、「儒教こそが最も偉大な精神的な教えであり、これが理解できない者は夷狄も同然である」と、中華思想の中心軸の1つになっていくのである。後に国家教学となる朱子学が、北方民族の圧力が厳しかった北宋・南宋で形成されていったのは偶然ではないだろう。また、“百家争鳴”という言葉があるほど多様だった古代シナ地域の思想が、時を経るにつれて儒教へと一元化されていったのも、良きもの・価値のあるもの・正統は常に1つであって、他を認めず、同化を強制する“中華文明”の特質をよく表している。その一元化への志向が政治面で表れたのが、皇帝が絶大な権力を保持する中央集権体制だろう。それによって、効率的な権力と財力の集約が可能となると同時に、屡々暴走も引き起こしてきたのが中国の歴史だった。因みに、チンギス・ハーンやティムール等、強いリーダーを思い浮かべ易い遊牧民だが、実は分権的であり、会議による合意を非常に重視する。チンギスもフビライも複数の部族の長から選出された代表であり、独裁者ではないのだ。部族の長たちの承認無しには、財力も強大な軍事力も行使できないのである。ここまで論じてきた“中華思想”の在り方は、基本的は近代以降、現代に至るまで大きな変わりは無い。但し、近代になると、北方の遊牧民に代わり、海からやって来たイギリスを始めとする西洋、更には日本が新たな征服者として現れる。世界史の舞台を、大陸ではなく島々と海からなる“多島海”に求めた川勝平太は、『文明の海洋史観』で興味深い指摘を行っている。寧ろ、海洋文明において先行したのは、イスラムが支配する環インド洋地域と、中国を中心とした環シナ海地域であり、西欧も日本も周辺地域に過ぎなかったのだ。

重要なのは、自分の劣位を自覚したヨーロッパと日本が如何なる選択を行ったかである。インド洋ルートでのイスラム商人の支配から逃れようとして、西欧諸国は喜望峰を回るアフリカ航路を開拓し、更にはアメリカ大陸へと進出した。一方、アジアでは中国沿岸地域や日本の九州・琉球を繋ぐ巨大な貿易圏が成立する。そこでは、中国の絹布や磁器等、当時の“ハイテク商品”やアジアの香辛料等が主な輸出品で、西欧はアメリカ大陸から、日本は石見銀山等から掘り出した金銀でそれを購入するという輸入超過の赤字構造だったのである。それに対して、西欧は産業革命によって生産性を向上させて競争力を付け、グローバルな“近代世界システム”を構築する。一方、江戸期になって鎖国体制に入った日本は、労働力の投下を増やして生産力を高める“勤勉革命”で、自給体制と生産技術の向上を実現する。この営みが、近代化を大きく推し進める要因となった。この時、中国(当時は明)はどう対応したのだろうか? この“海洋アジア”貿易圏の興隆に逆行するように、海禁政策を実施し、民間貿易を禁止する等、厳しい制限を設けたのである。本来ならば、最大の輸出国だった明は、この海洋アジアの盟主となれた筈だ。しかし、実際には倭寇(中国沿岸部での貿易を禁じられ、密貿易を行った商人集団)の取り締まりに汲々としただけだった。明は、白蓮教の秘密結社員で、『紅巾の乱』に乗じた朱元璋が建国した、久しぶりの漢民族による王朝だったが、海洋交易の勃興という世界史的な転換点に際して取り得たのは、結局、漢民族お得意の“城壁国家的引きこもり政策”だったのである。皮肉なことに、明の海禁政策を尻目に、満州南部で毛皮や薬用人参といった高額の物産を売り、大きな利益を得ていた武装商人集団のリーダーが、女真族のアイシンギョロ・ヌルハチだった。彼らは、貿易での儲けで自らの武装を強化し、軈て明王朝を倒す勢力となる。遊牧・農耕どちらも行う満州族は、優れた商業民でもあったのだ。斯くて明は、海洋時代の幕開けに絶好のポジションにありながら、決定的に出遅れてしまったのである。そして近代を迎え、“中華文明”にとって最大の試練が訪れる。それは、日本の台頭であった。古来、東夷の1つに過ぎず、しかも限られた時期を除いて、朝貢の圏外で殆ど没交渉に等しい存在だった島国――敵視する以前に、関心を払う必要さえ感じたことのない小国が、不遜にも近代化に成功し、西洋列強と肩を並べて“王土”を蹂躙しようとは、“中華思想”が思い描く世界秩序を根底から覆す、まさに驚天動地の出来事であった。

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近代化を巡り、先行する日本と後塵を拝する中国という構図は、今も尚、変わっていない。この劣等感は、我々が想像する以上に根深いものがある。例えば、習近平国家主席(左画像)は訪英の際、イギリス議会で日本の侵略について態々言及したが、『アへン戦争』の不条理や、その後に締結された不平等条約については、一切触れることはなかった。これは、中国人の思い描く“天下”の完全に外側から現れたイギリスよりも、格下もいいところだった日本へのコンプレックスのほうが強烈・鮮明だということを意味している。筆者の考えでは、このコンプレックスに囚われ過ぎている為に、中国はいつまで経ってもきちんと近代と向き合い、自分のものとすることができないのだ。アへン戦争以降の清朝の没落、日本の台頭等を全て、「漢民族が諸民族をリードし、一致団結して抵抗したことによって、日本帝国主義と西洋列強を退けた」というストーリーにしてしまえば、結局は「中国は何も悪くない、何も間違っていない。悪いのは皆、外国だ」ということになってしまう。つまり、真の意味で歴史から学ぶことができていないのである。そこで気が付くのは、歴史にせよ社会理論にせよ、新しい解釈やユニークな学説というものが中国から出てきたことがないという事実だ。勿論、中国共産党による縛りが厳しいせいもあるだろうが、やはり“中華思想”の弊害のほうが、より本質的であり深刻だろう。つまり、飽く迄も中国中心でしか世の中を見ることができない為に、「世界を1つのシステムとして客観的に捉える」という発想が生まれてこないのである。だから、この先、仮に中国の経済が発展し、軍事的にも強大化し、今以上に存在感を増したとしても、それは結局、城壁で囲う範囲が広くなるだけで、世界の秩序を変える力は無いだろう。“中華思想”の狭小な視野からは、世界の人々を惹きつける魅力ある世界システムの構想は生まれ得ないからだ。『アジアインフラ投資銀行(AIIB)』や『一帯一路』も一見、国際的なシステムを志向しているように見えるが、実際には、中国国内の論理を自他の見境も無いままに押し付けているだけなのだ。もっと言えば、「この“中華思想”は、中国が国際的に開かれ、更なる発展を遂げる可能性を縛る“足枷”ともなっている」と筆者は考えている。若し、中国が21世紀の世界をリードするような大国の1つになろうとするならば、嘗ての唐・元・清のような国際的で、他民族・他文化からの影響を恐れない国を目指すべきだし、その時にこそ、杜甫や李白の唐詩がそうであったように、漢文明のポテンシャルも最大に引き出せる筈なのだ。しかし、権力の一元化や、思想的な同化圧力を益々強めるばかりの現在の中国に、それを期待するのは難しいのかもしれない。 =おわり


楊海英(よう・かいえい) 文化人類学者・静岡大学教授。1964年、中華人民共和国内モンゴル自治区オルドス高原生まれ。北京第二外語学院大学日本語学科卒。著書に『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店)・『日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い』(中公新書)等。


キャプチャ  2016年夏号掲載

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