血塗られた蒸気機関車の数奇な運命…2度の大事件に関わった『D51-651』、触れられたくない“負の歴史”を追う

日々、列車事故によって人命が失われていく上で、中には複数回に亘り事故を起こしてしまう車輌もあったことだろう。だが、大事故に2度も遭遇した車輌など、これまであっただろうか? この“血塗られた車輌”D51-651の生誕から終焉までの足跡を追い、謎に包まれたミステリーの真相に迫る。 (取材・文/鼠入昌史 -編集プロダクション『Office Ti+』-)

20161128 01
D51型蒸気機関車、通称“デコイチ”。戦前から戦中にかけて実に1115両も製造されたデコイチは、蒸気機関車の代名詞のような存在となり、戦後、蒸気機関車が徐々に姿を消しつつある中でも、最後まで走り続けた。今も多くのファンを持つ“ザ・SL”、それがデコイチだ。たが、そんな“名機”デコイチにも、暗い歴史があった。『D51-651』。この1台の機関車は、2度の歴史に残る事故に巻き込まれる等、血塗られた歴史を持つ“呪われたデコイチ”であった。“651”という車両番号から“ムゴイ”等と言われることもあるD51-651は、どんな一生を辿ったのだろうか。651号機の誕生から終焉までを追いかけながら、その呪われた歩みを探ってみることにした。抑々、デコイチは1930年代半ばに製造が開始された機関車で、国内の貨物輸送需要が増加する中で設計された。その役割は貨物列車の牽引。つまり、人が乗る旅客列車ではなく、貨物列車の為の機関車として誕生したのである。1936年に製造が開始され、以降、日本全国の鉄道車両メーカーで次々に作られていく。そして1941年6月3日、山口県にある『日立製作所』笠戸工場で651号機が落成する。真珠湾攻撃の約半年前のことだった。その後、651号機はどこへ行ったのか。貨物列車が走る全国の路線に割り振られていったデコイチの中で、651号機が担ったのは常磐線の輸送だった。完成から11日後の同年6月15日には水戸機関区まで輸送され、651号機の機関車としての人生が始まった。

最初は他のデコイチと同じように、毎日噴煙を上げながら楽しく走り続けていたであろう651号機。しかし、デビューから約2年半たった1943年10月26日、最初の悲劇が651号機を襲う。110名の命を奪った『土浦駅列車衝突事故』である。今、JR土浦駅の南側には、桜川という1本の川が流れている。そして、常磐線の鉄橋の袂には、小さな慰霊碑が建っている。この時の列車衛突事故で命を落とした死者の冥福を祈る慰霊碑だ。だが、そこにはそれ以外のものは何も無い。当時あった貨物ヤードも姿を消して、只の駅前広場になってしまっている。しかし、ここで651号機は、110名もの命を奪う大きな事故を引き起こしてしまう。きっかけは、651号機よりも早く土浦益にやって来た貨物列車だった。この貨物列車がポイント進入を誤って、本来入るべき引込線ではなく、上り側本線に入り込んで立ち往生してしまったのだ。そして、そこに651号機が牽引している第254貨物列車が時速45kmで進入し、衝突。時速45kmというスピードは、当時のデコイチでは最高速度に近い。桜川を渡る鉄橋の先に勾配があり、勢いを付ける為に猛スピードで土浦駅を通過。それが、この悲劇の引き金となった。衝突した651号機はその衝撃で横転し、左側本線に食み出して停車。そして、そこに何も知らない旅客列車が突っ込んできた。桜川鉄橋の上で651号機とぶつかった旅客列車は、その衝撃で2両目がぺしゃんこに潰れ、3両目は鉄橋に引っかかってぶら下がり、そして4両目は衝撃に負けて桜川に転落、そのまま沈んでいってしまった――。以上が、土浦駅列車衝突事故の大まかな流れだ。今、それを留めるものは、駅構内にある小さな石碑1つだけ。当時の新聞報道等を探してみても、戦時中ということもあって、「事故が起きた」という最低限の事実以上の報道は殆どされていない。「補償も何も無かったんじゃないかな。『もう1週間も経ったら事故のことは触れちゃいけない感じになった』って、オヤジがね。だから、もう土浦に来たって、誰もあの事故のことは知らないよ」。土浦駅の近くに代々住んでいる年配の男性が教えてくれた。それが、戦時中の鉄道事故の真実だったのだ。では、最初に貨物列車に衝突し、更に旅客列車の衝突相手になった“犯人”651号機はその後、どうなったのだろうか。

20161128 02
実は、2度の衝突でかなりの損傷を受けていたが、何しろ鋼鉄でできた頑丈さが売りのデコイチ。修理を施された後、暫くすると、何事も無かったかのように走り出している。今の時代、日常的な人身事故ならばいざしらず、100名以上が命を落とす大事故を起こした列車は廃車となるのが当たり前である。事故原因の検証にも使われるし、再発防止の為に戒めとして保管されることもあるからだ。だが、本線上を再び走ることは、先ずあり得ない。ところが、時代は戦争真っ只中の1943年10月ともなれば、戦局も徐々に悪化し、更に軍部による情報統制も強化されていた。たとえ1000両も製造した機関車の1つと雖も、簡単に廃車にされることはなかったのだ。ただ、戦時中には他にも大規模な鉄道事故が起きているが、その殆どで車輌が修理不可能なほどに大破してしまっている為、復活した例は無い。651号機に限っては、事故の原因となる大きな衝突を引き起こしたにも関わらず、“偶々”修理可能だった為に再び常磐線の線路の上に戻り、2度目の悲劇を引き起こしてしまうのだ。鉄道マンの間では、“呪われた車両”というものがあるらしい。JRのとある車両基地で働く鉄道マンが言う。「1度、人身事故を起こした車輌は、2度・3度と繰り返すことがあるんです。だから、運転士は乗りたがらないし、整備をするのもちょっと怖い。ただ、人身事故程度で会社が廃車にする訳ないですから…。だから、車輌が“初めて”を経験すると、『またやるな』と思いますよ」。何度も事故を繰り返した車両にお祓いをすることもあるそうだ。だが、651号機の時代は、そんな悠長なことはやっていられない。敗色濃厚な戦局の中で、110名の人命を奪った“十字架”を背負いながら、毎日黙々と走り続けた。そして…。

戦争が終わってから4年後の1949年7月5日夜。いつもと変わらずに水戸機関区に所属して常磐線を走り続けていた651号機は、東京の田端機関区から水戸機関区へと帰還する為に出発の準備を進めていた。しかし、機関士が寝坊して出発準備に遅れが生じる。加えて、蒸気圧の調整にも手間取った。同時に、機関車に積んでいた発電機が何故か不調。前日までは普通に作動していた発電機が動かなくなってしまったのだ。しかし、既に定刻から遅れている。651号機の機関士は、寝坊した焦りもあって、発電機の修理を行わずに出発してしまう。その為、夜にも関わらずヘッドランプは非常用電池で、うっすらと光っている程度。線路の先に何があるのかを視認できるレベルでは全くなかった。そして、日付が変わった翌6日0時20分頃。651号機が牽引する貨物列事第869列車は、北千住駅を通過して荒川を渡る。直ぐに東武伊勢崎線との交差ポイントを迎えるが、そこで…何かがあった。しかし、先を急いでいた機関士は何も気が付かないまま、水戸へ向かって走り続けた。“何か”の答えが見つかったのは、その6分後に現場を通過した松戸行きの最終電車だった。そこには、当時の国鉄総裁だった下山定則の轢死体が転がっていた。所謂『下山事件』である。下山事件については、他殺説から自殺説まで様々なことが言われている。だが、現在も真実はわかっていない。寧ろ、それまで何の異変も無かった651号機の発電機が動かなくなり、蒸気圧の調整に時間がかかり、更に機関士が寝坊した…。この3つの“あり得ないこと”が重ならなければ、現場の通過時間はもっと早くなった筈。下山総裁が轢断されることは無かったかもしれない。同事件から6年前、110名の命を奪いながらも走り続けていた651号機。この日、急な不調を起こしたのは、単なる偶然だったのだろうか。人命を蔑ろにして労使抗争に明け暮れる国鉄に対して、“十字架”を背負った651号機からのメッセージだったのではないだろうか…。だが、その後も国鉄の内部抗争は終わることがなく、1950年代から1960年代にかけて度々大事故を起こす。鉄道だけでも合計500名以上の命が奪われた。651号機が鳴らした警鐘は、誰にも届かなかったのだ。2度に亘って人命を奪う事故に関わってしまったD51-651号機。しかし、先述の土浦駅列車衝突事故は兎も角、下山事件はある意味、只の人身事故に過ぎない。時の国鉄総裁を轢断したという事実は重かったが、それでも戦後直後の物資不定の時期に貴重な機関車を廃車にするという発想は無かったのだろう。それからも651号機は走り続けた。下山事件の翌年には煙突を交換し、1959年には常磐線の平機関区に移動。常磐線での動務を約24年に亘って続けた後、1965年には遠く広島の糸崎機関区に移動される。常磐線の電化が進み、デコイチが“お払い箱”になったのだ。

20161128 03
だが、糸崎機関区所属時代は僅か6ヵ月で終わる。651号機が次に所属したのは、最後の所属先となる岡山県の新見機関区だった。実は、新見機関区は最後までデコイチが残った場所の1つ。伯備線・姫新線・芸備線という3路線が交わる岡山県北の交通の要衝。だが、勾配のきつい山間部を走る為、戦前設計のデコイチ1台だけでは重い貨物列車を牽引することができなかった。そこで、3台のデコイチを連ねて走る“三重連”を行った。その為、多くのデコイチが最後の場所として新見に送られていったのだ。651号機も、そんなデコイチの“墓場”で最後の瞬間を待った。651号機は、新見の地で約7年間に亘って走り続けている。機関車の三重連は、当時の鉄道ファンにとって垂涎の的。沿線には多くのファンが詰めかけて、写真撮影を行った。徐々に姿を消しつつあった蒸気機関車にとって、最後の晴れ舞台でもあったのだ。その様子を教えてくれたのは、新見市の地域紙『備北民報』の老記者だ。「いやいや、凄かったねぇ。毎週末、カメラを持った人が沢山やって来て。蒸気機関車が無くなって、新見の町も活気が無くなっちゃったかな」。だが、そんな彼にも「651号機の存在は記憶に無い」という。「取材したような気もするけど、あまり目立ってはいなかったから…」。三重連の先頭を行くデコイチは、まさに華。続いて、2両切り離された後に先頭を行く3両目も、2番目の華であった。しかし、651号機がこうした華のある役割を任されることは殆ど無かったという。1970年代に入ると、全国的にSLブームが巻き起こる。しかし、そんな中でも651号機が注目されることはなかった。ひっそりと、他の名機の影に隠れて、伯備線の貨物列車を牽き続けた。新見機関区の鉄道マンたちも、この651号機が脛に傷を持つ子であることをよく知っていた。2度に亘って人命を奪った機関車には、華々しい舞台が用意されることは無かったのだ。そして、1972年5月30日。ひっそりと最後の仕事を終えた651号機は、新見機関区の僅かな整備士たちに見送られながら、機関事としての生涯を終えた。31年間に亘って走り続け、その間の走行距離は、地球を約67周する合計270万km。1400馬力の最新機関車は、常磐線で胸を張って走り始め、2度の事故で深い傷を負って、岡山の山奥に飛ばされた。そして、ひっそりと消えていったのだ。

「今も651号機の最後の瞬間を覚えている」と言う機関区整備士が、現在も新見市に住んでいた。「その後、直ぐに機関区からデコイチが全て消えちゃったからね。新見には、他にもお召列車を引っ張った機関車とか色々いたから、651は地味だったけど…。でも、皆、特別な思いで整備していたよ。だって、国鉄マンにとっちゃ忘れてはいけない機関車だからねぇ。見送ったのは俺たちだけだったけどね」。だが、最後の瞬間は備北民報も報じていた。1972年5月31日付の記事である。

下山事件の唯一の目撃者として名を高めた『D51 651』蒸気機関車が、31日の仕事を最後に退役、新見機関区の車庫でしばらく眠ったあと、米子市の後藤工場で解体されることになった。昭和24年7月5日、当時の下山定則国鉄総裁が国鉄常磐線北千住-磯瀬間の線路上でれき死体となって発見され、他殺か自殺か――死に至った原因はいまだにナゾを秘めたまま。その時の機関車がこの『D51 651』で、証言こそしないが、誤って列車にはねられたか(自殺)殺してから線路に置いたか(死後れき断)真実を知っているのはこの機関車だけ。昭和16年に日立笠戸工場で製造されたこの『D51 651』は、けん引力1400万馬力、当時新鋭花形機関車として水戸機関区へ配属され、巨体をゆすりながら時速80キロのスピードで走った。下山事件後、各地の機関区を転々、49年9月新見機関区へ配属され、伯備線で貨物列車を引っぱりつづけた。31年間の走行距離217万キロ。スネに傷もつ身とはいえ、熱狂的なSLブームの蔭にかくれて働きつづけ、老兵となって退役する『D51 651』に新見機関区員がお別れの点検をしてやった。また、急勾配やカーブに強い新型ディゼル機関車の試運転が、31日から2日間、伯備線新見-米子間で行なわれ、国鉄関係職員だけでなく一般市民もスマートな同列車を見物した。国鉄大宮工場で製造した山間高速用の試作車で、49年ごろから伯備線など全国山間路線の特急列車としてお目見得する。この機関車は『キハ391』型といい、1050馬力のヘリコプター用エンジンを積載した最高時速130キロの新鋭車。山間路線のスピードアップを狙って造ったもので、普通の列車にくらべて重心が低く、台車と車両の間に振子の役目をする特殊な仕掛けがあって、急カーブでもスピードを落とさなくてもすむ。米子-新見間はカーブが多く、直線に強い特急もカーブでは4、50キロにスピードを落すため、米子-新見間を2時間かかるのが現状。ところがこの列車は、そうしたカーブでも80キロ出せるので同区間を1時間半で突走った。また乗り心地についても、心配されたエンジンの金属音も大したことはなく、発進、停車時の不快感もないという好成績だった。

お別れの点検をする機関区員の写真と共に、「歴史に名を刻んだ機関車が静かに去って行く」という内容の、小さな記事である。そんな入れ替わりに新見にやって来た新型試験車両『キハ391系』が直ぐに故障して、その成果を示すことができないままこの世を去ったのは、“十字架”を背負わされた651号機の最後の“復讐”だったのかもしれない。現在、新見からは機関区は姿を消し、蒸気機関車を見ることもできなければ、その残滓すら無い。僅かに、嘗ての機関区が列車区として残り(左上画像)、伯備線や姫新線で走る車両が留置されているだけだ。しかし、この山奥の地で、血塗られた651号機が静かに余生を過ごしていたことだけは間違いない――。


キャプチャ  第1号掲載

スポンサーサイト

テーマ : 鉄道関連のニュース
ジャンル : ニュース

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

广告
搜索
RSS链接
链接
QR码
QR