【平成の天皇・象徴の歩み】(16) 沖縄と向き合う決意

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赤へルメット姿の2人が、爆竹を鳴らしながら火炎瓶1本を投げ、ご夫妻から約2m手前の祭壇裏で燃え上がった――。1975年7月7日、沖縄県糸満市の『ひめゆりの塔』で、皇太子夫妻時代の天皇・皇后両陛下に向かって火炎瓶が投げ付けられた。読売新聞は、その瞬間を捉えた写真と共に、事件を報じた。両陛下にとっては初の沖縄訪問で、先の大戦の慰霊の為、南部の激戦地を巡られていた。怪我は無く、慰霊は続けられ、陛下はその夜、県民に向けてお言葉を発表された。「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖えるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、1人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」。陛下はお言葉通り、住民を巻き込んだ凄絶な地上戦で約20万人が犠牲になった沖縄に、全身全霊で心を寄せ続けられた。沖縄学の第一人者である外間守善さん(※2012年没)に教えを請われたのも、そうした姿勢の表れだった。1968年に始まった進講(講義)で、沖縄の文化や独自の短歌・琉歌も学ばれた。3000余りの歌から琉球国王の四十数首をノートに書き写し、勉強されたという。本土との交流事業で“豆記者”として派遣される沖縄の子供たちとの間で、沖縄がアメリカ軍の占領下にあった1963年から触れ合いの場を持たれてきた。

琉球大学准教授の高良宣孝さん(42)は、12歳の時、静養先の軽井沢のホテルに招かれた。陛下の世が長く続くことを願う琉歌を詠むと、陸下も琉歌を返してくれた。「いくさ世もすまち みろく世もやがて 嘆くなやう臣下 命ど宝(戦いの時代も終わり、幸せな時代も間もなく来る。臣下よ嘆くな、命を大切に)」。琉球王朝の最後に首里城を離れる尚泰王が詠んだと伝わる歌だ。言語学者になり、沖縄の方言も研究した高良さんは、「陛下が深く知ろうとされた沖縄の文化に興味を持った」と話す。陛下は1989年、即位後初の記者会見で、「機会があれば是非」と沖縄訪問を望まれた。1993年に実現すると、『ひめゆり平和祈念資料館』で、ひめゆり学徒隊の人々と会うことを望まれた。戦中の動員で136人が犠牲になり、天皇との面会を疑問視する声もあった。だが、陛下と会った本村つるさん(92)は、元学徒隊員の体験記を読み、我が子にも伝えていると明かす陛下に接し、沖縄に寄せる真摯な思いを感じ取った。2012年、両陛下のお子さま方が計画された陛下の喜寿(※77歳)のお祝いでは、東宮御所で沖縄の歌や踊りが被露された。両陛下と40年来の交流がある琉球舞踊家の志田房子さん(80)は、「沖縄を思い続けて下さることへの感謝を込めて舞った」と語る。両陛下の沖縄訪問は、皇太子時代を含めて計10回に上る。外間さんは、他界する5年前に出版した自伝『回想80年 沖縄学への道』で、ひめゆりの塔事件の前夜、陛下が見せたある“覚悟”に触れている。沖縄への出発を翌朝に控え、陛下は深夜まで県民へのお言葉を推敲されていた。大反対の中、激戦地で慰霊すると決めた陛下に「何が起こるかわかりませんから、是非用心して下さい」と伝えると、「何が起きても受けます」と静かに答えられたという。「並々ならぬご決意が伝わってきた」――。外間さんはそう書き残している。 =おわり

               ◇

吉田敏行・小野沢記秀・岩崎千尋・大前勇が担当しました。


⦿読売新聞 2017年7月5日付掲載⦿

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「60代のオヤジが20代とヤるなんて幻想だよ」――週刊誌が煽る“死ぬまでSEX”ブームの舞台裏

『高齢者だってセックス 言えない性の悩み』と題した番組が『クローズアップ現代+』(NHK総合テレビ)で放映されたのは、今年5月のこと。週刊誌でも高齢者のセックス特集は好評で、『死ぬまで、死ぬほどセックス』『まだまだ現役、こんなに楽しんでいます 80歳からのセックス』等のタイトルが電車の中吊りで踊るのが、嫌でも目に入ってくる。近頃、老いらくの恋ならぬ老いらくの性が、何やら盛り上がっている。戦前生まれは性欲があることすら恥じらいのヴェールで包んでいた世代だったが、団塊世代がアラセブに突入すると、老人リブばりに性の解放を声高に叫ぶようだ。という訳で、高齢者の性に詳しい方々に集まって頂き、実際どうなっているのか聞いてみた。 (聞き手/フリーライター 中山美里)

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鈴木「実際、高齢者のセックス特集をするとバカ売れするんですよね。『文春超えるんじゃないの?』ってくらいにバカスカ売れる」
高山「書籍も売れ行き好調のようですしね。出版業界で唯一、好調なんじゃないでしょうか(笑)」

――しかし何故、あんなに売れるんでしょうね?
鈴木「実は、企画によっては売れないんですよ。“自分の愛するパートナーと添い遂げられると理想ですよね”というテーマで、心身を満足させる為のノウハウや人体の科学に焦点を当てれば売れるんです」
高山「実用的だということですね」
鈴木「でも、“ジジイでもモテる”とか、“愛人を作る”とかって企画にすると、全然ダメなんですよ」
高山「60代男性が20代とセックスなんて、単なる幻想ですからね。実際、20代の女性とセックスしたって楽しくないし(苦笑)。話して面白く、癒し癒されるエロスの時間を提供できるのは、アラフォー以降の大人の女性ですよ」

――やはり、読者の実生活に則したものだと売れるってことですね。明菜さんのお客さんは、やはり年上の方が多いんですか?
明菜「色々な年代の方が来ますが、高齢の方も多いですよ。これまでの1番年上は94歳。勃たなかったですが、やる気は満々でした。60代は更にいますね」
高山「『勃起力の衰えと年齢は関係ない』って取材でよく聞くんです。『“勃つ・イク・射精する”は別物だ』と皆さん言うんですよね。私にはイチモツが無いので、残念ながら実感できないんですが…」
明菜「そうですね。フニャフニャでもイクし、出る人は出る。中年でも勃たない人もいるし、高齢でもしっかり勃つ人もいます。個人差があるものだと思います」
鈴木「年齢と共に性ホルモンの分泌は衰えるので、これまでは『高齢になると性欲は無くなる』と考えられていたんです。でも、神経伝達物質があることで、性欲は無くならないことがわかってきた。セックスは、脳も使えば手足も使う。まさに全身運動です。健康の為にも、したほうがいいんでしょうね」
高山「『女性は、閉経で女性ホルモンの分泌が無くなると濡れなくなる』と学説では言われているんです。でも、高齢者AV女優が出演するメーカーに取材した時は、男性とヤリ続けている女性は70代でもグチョ濡れだし、閉経後に彼氏等ができてヤリ始めると、再び愛液も出始めるんですって。『長寿の秘訣はスケベだ』って断言していた女優さんもいましたね」
鈴木「但し、何でもやり過ぎは良くない。高血圧の人なんかは、それこそ興奮し過ぎて本当に昇天というケースもあるから注意しないと(笑)」
高山「確かに(笑)。実際、本番行為は体力使うからそれなりに危険だけど、そこは記事にできませんよね。挿入ではなく、肌の触れ合いを求めている人は多く、年金が入るといつも120分コースで風俗を予約するお爺ちゃんもいます」
明菜「60代以上の男性は90分以上と長く利用する方、多いですね。あるお客さんは、いつも最低3時間以上で利用してくれるのですが、家に行くとお風呂を沸かして待っていて、ご飯も用意されているんです。一緒にお風呂に入って、食事をした後にエッチなことをする…そんな流れが出来上がっています」

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【新米住職ワーキングプア】(04) お布施はどこに行ったかと住職を監視する檀家をいかにするか

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本を書くと講演依頼が入るようになります。『お寺さん崩壊』(新潮新書)を上梓して以降、宗派を問わず各地からお声掛かりが増えました。先日は曹洞宗さんの現職研修ということで、お寺さん200ヵ寺くらいの前でお話をさせて頂きました。群馬県での講演でしたが、過疎地のところが多いとのこと。地方寺院の未来が決して明るくないこともあって、本当に真剣に耳を傾けて下さり、また寺院存続へ向けた具体的な質問や意見等も多数頂き、大変有意義な時間でした。中でも、「余裕が無い為に寺院収入の全てを護持に使い、自身は給与を殆ど貰っていない」と仰っておられた女性住職の弁には、胸を打たれた次第です。私自身は、今後の寺院存続を念頭に置いた場合、寺院経理の徹底した透明性の確保は、財政公開も含めて非常に有効であるものと考えています。しかし、それを急激に進めると、間違った理解をしがちな檀家さんのご意見に振り回されることもあります。例えば、「人件費は認めない」といった類いのものです。だから、自らそれを辞退する住職も現れるのかもしれません。檀家の言い分はこうです。「自分たちは働いたお金で布施をしている。住職も寺へ寄付をすべし」。一見、尤もに映りますが、大きな見落としがあります。この場合、檀家は最初に仏様から布施(法施)を頂いていることを自覚していません。法の世界とのお取り次ぎをするお寺から、先ず葬儀や法事・法話といった布施を頂いている。それに対して、“財施”といった形での布施返しをお寺は頂く。先に有難いご縁を頂いたことに対する感謝の気持ちからのお布施であることが、すっぽりと抜け落ちています。そうすると、「お布施をしてあげている」という意識が生じてしまうようです。

地方で過疎地といった地理的不利を被 っている寺院では、この誤った論理に巻き込まれ易い為、特に気を付けておくべきでしょう。何故なら、こうしたところに位置する寺院は、ともすれば神社と同じような扱いを受けがちだからです。田舎の神社は、集落に住む人たちが氏子となり、全員で支えてきた歴史があります。だから、神社に対して“自分たち(集落)のもの”という意識を強く滲ませます。「自分が社を支えてやっている」という自負心です。高じて、神さんを支えている。その延長線上に“お寺”も意識されていく――。これが、前述したお布施の勘違いに繋がっていきます。しかし本来、寺院というものは、その地に最初に開創した僧侶がいる筈です。ここは神社との大きな違いです。初代住職により建立された地方寺院は、歴代の住職が布教を重ねることで檀家を開拓し、彼らを繋ぎ止め、護持を果たしてきました。その過程で、寺院存続に欠かせない大型の寄付をされた檀家さんもおられたことでしょう。そうした檀家の家系は、総代等の重要地位に就いてこられた筈です。そうしたことに加え、戦前の寺院は財産として田畑を所有しているところも多かったようです。護持や住職の食い扶持も、それにより保証されていたのです。ですが、敗戦によりそれが一変します。農地改革による寺領の激減です(『寺院消滅』鵜飼秀徳著・日経BP社)。地方寺院の住職の兼業は、今では当たり前ですが、恐らく、この頃より急増したものと思われます。平日は住職が自ら飯の種を稼ぎ、週末は寺院存続の為にほぼボランティアで法務に励む。“365日・24時間戦えますか”の世界の出現です。ブラック企業も真っ青の働き方ですが、今や檀家からも“当たり前”と認識されています。先の女性住職の発言には、こうした背景が重なって、思わず涙をそそられた次第です。翻って、寺院財政の透明化について、「若し住職給与を出せる余裕があるならば、堂々と適正な額を支給すべきだ」と考えています。そうでなければ、後継者が育たないからです。跡継ぎがいなければ、いずれそのお寺は朽ち果てていきます。そうなって一番困るのは檀家さんです。既に、住職が一般社会での仕事を持ちながらお寺の運営も熟すという地方寺院ならではの兼業は、不可能な時代に差し掛かりつつあります。そのあたりの説明をしっかりと行い、檀家の理解を得た上で、住職給与が支給できる法人財務体制を構築することが急がれます。檀家さんの意識が“してあげている”というようなものになり易い理由を考えてみますと、偏にお寺へ対する若干の不信感がそこに芽生えているように思うのです。先日、地元の教区の下部組織でも講師依頼が入り、丁度『仏教壮年会』の総会でお話をしていた時のことです。地方寺院を取り巻く歴史や制度の変遷、過疎化の現状、住職の給与実態、少子高齢化における地方寺院の近未来像、お布施の精神等について語った後、質疑の時間も少し設けました。一様に皆さん「知らなかった。坊主丸儲けと思っていた」と口を揃える。私はつい勝ち誇ったような表情を作り、すかさず「おわかりになりましたか? お寺を大事にして下さいよ」と門徒さんに重ねて釘を刺しました。そして、鼻の穴を少し膨らませておりました。

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【平成の天皇・象徴の歩み】(15) 開拓地の苦難、耳傾け

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栃木県那須町の千振地区は、戦後、満州(※現在の中国東北部)から引き揚げた人々が切り開いた牧場や農耕地が広がる。2005年9月、皇室の静養施設・那須御用邸の東約5㎞に位置するこの開拓地に、天皇ご一家が足を運ばれた。「シノザサの根を起こすのに随分苦労されたようですね」。案内役の中込敏郎さん(90)にそう声をかけたのは、天皇・皇后両陛下の長女で、2ヵ月後に結婚を控えていた黒田清子さん(紀宮さま)だった。「そんなことまでご存知なのか」と中込さんは驚いたという。千振の記録『千振開拓50年のあゆみ』を両陛下は読まれており、自分も読ませてもらったのだと黒田さんが説明してくれた。1995年発行の記録集は、8世帯其々の開拓史を紹介している。「ご一家で開拓民1人ひとりの人生を知ろうとしてくれた」と、中込さんは感激した。「三角に組んだ丸太に笹を被せた小屋に住み、雨漏りに耐え、荒野を耕しました」。ご一家で中込さんの説明に耳を傾け、陛下は去り際、「満州での開拓に続いての開拓を成し遂げられ、ご苦労さまでした」と、那須の大地を切り開いた人々を労われた。1932年から約27万人が満州や内モンゴルに入植した満蒙開拓では、終戦時のソビエト連邦軍侵攻による混乱もあり、約8万人が命を落としたとされる。

戦後60年を迎えたこの年の千振訪問には、秋篠宮さまと孫の眞子さまも一緒だった。皇后さまは翌月の誕生日に発表した文書で、当時、中学2年生の眞子さまには少し早いと思ったが、藤原ていの『流れる星は生きている』を読んでいたので誘ったことを明かされた。戦後の満州からの脱出行を描いた藤原の体験記は、紀子さまの母親で、やはり満州からの引き揚げを体験した川嶋和代さんが、眞子さまに渡したのだった。両陛下は他にも、長野県軽井沢町の大日向地区や宮城県蔵王町の北原尾地区等、満州やパラオ等から引き揚げた人たちが切り開いた開拓地を、即位後だけで10回ほど訪問されている。昨年11月には、長野県阿智村で2013年にオープンした『満蒙開拓平和記念館』に向かわれた。「公務を離れてゆっくりして頂く」と同年に始まった私的旅行を利用しての訪問だった。寺沢秀文副館長(63)は「両陛下が見学を望んでいる」と聞いていたが、「国策で多くの人が犠牲になり、現地の住民の家や土地も奪ったとされる歴史の暗部も扱うこの施設に来られるのは難しいだろう」と考えていた。両陛下は同館で、引き揚げを体験した語り部3人の話を割かれた。久保田諫さん(87)は、戦後の混乱の中、集団自決することになり、開拓団の女性や子供に手をかけたと打ち明けた。其々の体験談に耳を傾けた陛下は、「3人のご苦労があったから、今の日本の平和と繁栄があるので、語り継いでいって下さい」と伝えられた。久保田さんは「悲しい歴史もありのまま伝えることを両陛下に後押ししてもらった」と受け止め、その語り口はより熱を帯びるようになった。両陛下の訪問で同館は注目を集め、来館者が1.5倍に増えたという。


⦿読売新聞 2017年7月4日付掲載⦿

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【平成の天皇・象徴の歩み】(14) 差別の苦しみ、癒やす

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天皇・皇后両陛下を乗せて、瀬戸内海を行く高速船が速度を落とし、大島にギリギリまで近付いて行った。2004年10月4日、香川県の小豆島に向かい、高松市に戻る途中だった。両陛下は当初、同市で『全国豊かな海づくり大会』に出席するこの機会に、大島の『国立療養所大島青松園』を訪ね、入所しているハンセン病の元患者と会うことを望まれた。だが、島は浅瀬で高速船が着岸できない為、この2日前、同市内で入所者代表ら約25人との懇談が設定された。其々の手による陶磁器や盆栽を前に、「作ることが生き甲斐になっていますか?」等と声をかけられていた。両陛下はその上で、上陸できないまでも、船上から島の人々に手を振ろうとされたのだった。島の桟橋にも約200人が集まり、日の丸の小旗を振った。肉眼では両陛下の姿を確認できなかったが、入所者の野村宏さん(81)は「波に揺れる船を見ただけで、両陛下の温かなお気持ちが伝わってきた」と振り返る。野村さんが入所した1952年当時、同園では24畳の大部屋で12人が生活していた。職員は予防着と長靴姿。外の病院で治療を受けられず、医師や看護師は目しか出さない格好で接してきた。当時の患者らは、人里離れた地域や島での生活を余儀なくされた。差別的待遇は、1996年のらい予防法廃止まで続いた。

国の隔離政策を違憲とした熊本地裁判決が確定したのは、2001年になってからだ。陛下は、皇太子時代の1968年の『奄美和光園』(鹿児島県奄美市)訪問から、2014年の『東北新生園』(宮城県登米市)訪問まで、半世紀近くかけて、国内14の全ハンセン病療養所の入所者と懇談された。「ハンセン病への誤解や偏見が続く中、両陛下は行動し、理解を広めてくれた」。『全国ハンセン病療養所入所者協議会』会長の森和男さん(77)は、そう強調する。1975年の沖縄初訪問の時も、『沖縄愛楽園』(名護市)に向かわれた。差別と戦争の惨褐に苦しんだ人々と懇談後、車に向かわれた時、船出歌『だんじょかれよし』(※“誠にめでたい”の意)の大合唱が沸き起こった。陛下は、この情景を“だんじょかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る(だんじょかれよしの歌声の響き 歌って見送ってくれた人々の笑顔 今も心に残っている)と、沖縄独特の短歌『琉歌』に詠まれた。これに皇后さまが曲を付けた『歌声の響』は、ご結婚40年・50年の祝賀の機会に披露されてきた。2015年にハンセン病への差別撤廃を世界に訴える『グローバルアピール2015』が東京で開かれると、両陛下は来日した各国の元患者代表をお住まいの御所に招き、懇談された。日本政府ハンセン病人権啓発大使で、『日本財団』会長の笹川陽平さん(78)は、この時に案内役を務めた。頬擦りするように顔を寄せ、病気で形が変わった手を握られる両陛下と、目を潤ませて感激している元患者らの姿が、目に焼き付いているという。「家族からも手を握ってもらえない私と握手して下さった。これまでの苦しみや痛みがスッと消えた」。懇談後の記者会見で、インドの『ハンセン病回復者協会』会長のヴァガヴァサリ・ナルサッパさんは目を輝かせた。アメリカ人の男性代表は、「両陛下に会って私は復活した。新しい世界への扉を開けてくれた」と、感謝と喜びの言葉を口にした。


⦿読売新聞 2017年7月2日付掲載⦿

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【平成の天皇・象徴の歩み】(13) パラ大会機に支え続け

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パラリンピック競泳メダリスト・河合純一さん(42)の職場に宮内庁から電話がかかってきたのは、2000年秋のことだ。「天皇陛下がおめでとうと仰っています」。驚いていると、「是非伝えてほしいと希望されたので…」と突然の電話の理由を説明された。15歳で全盲となった河合さんは、同年10月のシドニー大会で、競泳男子50m自由形(視覚障害1)等5種目に出場。金メダル2個、銀メダル3個を獲得した。バルセロナ、アトランタに続いて出場したシドニーには、期するものがあった。大学を卒業し、公立中教員に採用されて初めての大会で、選手団の主将も務めた。社会人としてアスリートとして迎えた正念場だった。アトランタの時は、他の入賞者らと一緒に皇居での茶会に招かれ、陛下と皇后さまに労ってもらった。「態々電話で祝意を伝えてくれたのは、シドニーが私にとって重要な大会だったと理解して頂いたからだ」と、河合さんは感じたという。天皇陛下は皇太子時代、1964年の第2回パラリンピック東京大会で名誉総裁を務められた。閉会後、「このような大会を国内でも毎年行えれば」と述べられ、翌年に『全国身体障害者スポーツ大会』が始まったことは、よく知られている。関係者によると、陛下はこの時、日本は病院や施設にいる選手が多いが、外国の選手は社会人が大半である点に着目し、言及されたのだという。

同大会の前に開かれる団体種目に、車椅子等の障害者も健常者と対等に競えるアーチェリーが加わったのも、両陛下の尽力があった。新競技が採用されれば、練習場が新設され、障害者の参加機会が増える――。そうした考えを熱心に関係者に伝えられたという。1980年の国体で、障害者がアーチェリー競技に初めて出場した。陛下は、続いて開かれた全国身体障害者スポーツ大会のお言葉で、「私は心から嬉しく思いました」と喜びを口にされた。陛下は、1965年の第1回から即位した1989年の第25回まで、昭和天皇が病で伏した1988年を除き、同大会に全て出席された。選手を見守る役目は、即位翌年から皇太子さまが担われている。同大会は2001年に知的障害者の大会を統合し、『全国障害者スポーツ大会』として続いている。障害者が働き、自立を目指す『太陽の家』(大分県別府市)が創立50周年を迎えた2015年10月。現地で式典に臨んだ後、陛下はトレーニング施設で「ちょっとやりましょうか」と、卓球選手の宿野部拓海さん(25)をラリーに誘われた。角度のある球を次々と返される陛下と“対戦”した宿野部さんは、「真剣にやって頂き、互角の勝負になりました」と振り返る。ボッチャ日本代表の木谷隆行さん(47)には、熱心にルールを尋ねられた。木谷さんは、「両陛下は、ボッチャをスポーツと捉えてくれている」と感じた。翌年のリオ大会で、日本初となる団体戦銀メダルを手にした時、両陛下の顔が頭に浮かんだという。3年後、東京は世界で初めてパラリンピックを2回開催する都市となる。『日本身体障害者スポーツ協会』元常務理事の井手精一郎さん(92)は、「今日の障害者スポーツの発展は、両陛下無しにはあり得なかった。2020年大会は上皇・上皇后両陛下として、成長した日本の選手に声援を送って頂きたい」と話す。


⦿読売新聞 2017年6月30日付掲載⦿

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【平成の天皇・象徴の歩み】(12) 障害者支援の輪、広げる

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『天皇皇后両陛下 障害者にお心を寄せて』――。政府インターネットテレビで先月26日から放送が始まった番組名だ。1959年のご結婚以来、心身障害児を受け入れている施設への訪問を始めとして、障害者に寄り添われてきた両陛下の半世紀を、約50分の映像で辿ることができる。「重症心身障害児を持つ親たちの苦労は、今日からは計り知れないものがあったと思います」。天皇陛下が2004年6月、創立40周年を迎えた『全国重症心身障害児(者)を守る会』の記念大会で挨拶される姿も、番組は紹介している。この時、壇上で陛下のお言葉を聞いていた同会の会長・北浦雅子さん(96)の胸には、自身の苦難の歩みが去来した。終戦の翌年に生まれた次男は、生後7ヵ月の時に脳炎を患い、右半身麻痺等の重い障害を抱えた。「国は当時、『社会の役に立たない子にお金をかける必要はない』という姿勢だった」。北浦さんは我が子を腕に抱き、「自分が死ぬ時は子供も一緒だ」と悲壮な覚悟を決めた。同じ立場の親たちと当時の厚生省や大蔵省を回り、政治家に働きかけ、1964年6月、会の設立にこぎ着けた。

国民の憧れの的となった皇太子ご夫妻が、重症心身障害児の施設を訪れ、子供たちと交流される姿は、障害児の親たちの心の支えになった。会の活動により、『国立療養所』に重症児の病棟が設けられ、療育施設も拡大していった。「この大会に、重い心身障害の人たちが親の愛に支えられて参加していることを、嬉しく思います」。記念大会で陛下のお気持ちに触れ、北浦さんは長年の苦労が報われる気がした。「障害者や高齢者、災害を受けた人々、社会や人々の為に尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務め」。即位10年を迎えた1999年の記者会見で、陛下は自身の考えをそう明かされた。宮内庁によると、両陛下がご結婚後に視察された福祉施設は、全国で延べ500ヵ所を超える。即位後は、こどもの日・敬老の日、毎年12月の障害者週間の前後に、関連施設を視察されてきた。子供と高齢者の施設訪問は、2015年から皇太子・秋篠宮両ご夫妻に引き継いだが、障害者の施設訪問は今も続けられている。昨年春の園遊会。招待客の1人で、聾者劇団を支援している女優の黒柳徹子さんが、手話の普及に一役買われた陛下に謝意を伝える場面があった。両陛下は1979年、黒柳さんがアメリカから招いた聾者劇団『デフシアター』の公演を観劇された。これをきっかけに、手話の表現力が注目を集め、日本で聾者劇団を設立する機運が高まった。「日本中で手話をやることが恥ずかしくなくなり、とてもありがたかったです」という黒柳さんに、陛下は「そうでしたか」と笑顔で応えられた。皇后さま自身も、聴覚障害者と手話で会話されることがある。秋篠宮妃紀子さまや長女の眞子さま、次女の佳子さまも手話を習得し、『全国高校生手話パフォーマンス甲子園』といった行事に毎年出席されている。天皇ご一家の中でも、聾者支援の輪が広がっている。


⦿読売新聞 2017年6月28日付掲載⦿

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【平成の天皇・象徴の歩み】(11) 明日になう子供見守る

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天皇・皇后両陛下は、砂山やトンネルを作って遊ぶ園児に「何ができるの?」と声をかけると、一緒に砂遊びを始められた。1999年4月30日に東京都荒川区の『ドン・ボスコ保育園』を視察された時のことだ。「あっ」。予定に無かったことで、園の職員が慌ててお手拭きを用意する一幕もあった。当時、園長代理だった白沢美代子さん(83)は、「両陛下が子供中心に考え、動かれる姿を見て、あの日は驚きの連続だった」と振り返る。「結婚を機に社会福祉事業をやることにしました。皆さんもぜひ協力してください」――。1959年4月7日付の読売新聞朝刊は、この前日、結婚の儀を4日後に控えた皇太子時代の陛下が、学習院の同期生が開いた結婚祝賀パーティーで、児童福祉に取り組んでいく決意を明かされたと伝えている。両陛下はこの3ヵ月後、母子の健康と福祉の向上を目指す『母子愛育会』の病院や幼稚園を視察された(※右画像)。当時の乳児死亡率(※出生1000人当たり)は33.7。2015年の1.9とは比較にならないほど高かった。同会の愛育班は、この死亡率を低下させようと、妊産婦や乳幼児への声かけや見守りの活動を展開した。両陛下は結婚後、児童福祉施設や慈善イベントに精力的に足を運び、1982年からは同会愛育班の功労者との面会も始められた。

児童福祉法施行20周年を迎えた1968年の記念式典で、陛下は「明日を担う児童を保護育成することは、我が国の将来の発展に極めて大切」と述べられた。愛育班との面会は、即位後の2003年まで続いた。同会愛育推進部長の山田邦子さん(60)は、「代表者を通じて班員全員に労いのお言葉があり、活動への情熱とやる気に繋がった」と振り返る。両陛下のご結婚を機に誕生した児童向け大型施設もある。横浜市青葉区の『こどもの国』だ。両陛下は、国民らから寄せられたお祝い金を、子供の為の施設に使うことを望まれた。厚生省(※当時)の検討を経て、1965年、約100haの雑木林を生かした自然の遊びが整備された。陛下の提案で牧場も作られた。当時は高度経済成長の真っ只中。都市化で子供の遊び場が減る一方で、大気汚染が深刻化した。「(子供が)自然の営みに直接触れる機会の持たれることが望ましいと考えた」。陛下は、開園30周年を迎えた1995年の記念式典で、こどもの国を願った理由を明かされた。時代によって、子供を取り巻く環境も変化していく。いじめや児童虐待が社会問題として浮上した2006年12月の記者会見では、いじめに遭い、自殺した子供もいたことに胸を痛められた。「このようなことをでき得る限り防ぐ為に、親・子・先生が互いに信頼し合う関係を築いていくことが大切」と訴えられた。この3ヵ月前、両陛下の4人目の孫・悠仁さまが生まれていた。訪問先の子供たちは既に“孫の世代”となり、子供施設への訪問は2015年から皇太子・秋篠宮両ご夫妻に受け継がれた。ご結婚から半世紀余り、子供たちを見守られてきた両陛下の思いを知る側近は言う。「陛下と皇后さまは、将来の日本を支える子供たちの健全育成を心から願われている。そのお気持ちは、退位後も変わることはないだろう」。


⦿読売新聞 2017年6月26日付掲載⦿

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【風俗嬢のリアル】(08) シズカの場合――田んぼの中のデリヘル

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新幹線の車窓から見える景色は、どこまでも続く田園風景だ。ここは栃木県那須塩原市。名古屋を出たシズカは、山梨のデリへルで1週間働いた後、那須塩原にある人妻デリへルへ移動していた。皇室の御用邸があることでも知られる那須は、温泉のメッカとしても有名な観光スポットである。新幹線の停車駅には沢山のパンフレットが並び、“那須塩原へようこそ”と書かれた上りが幾つも掲げられ、街を賑やかにアピールしていた。とはいえ、華やかさも駅を出れば一変。周辺は寂れた住宅街で、個人商店がぽつぽつと並んでいるものの、どこも店内は暗く、昼間なのにひと気がない。幾つかの店のドアには“泥棒侵入禁止”と書かれた警察署のステッカーが貼ってあり、事件など起きようもない安穏とした暮らしが窺えるのだった。シズカの働くデリへルの事務所は、JR那須塩原駅から更に電車に乗り、最寄駅から数㎞歩いた先にある。時間潰しに喫茶店に入ると、店内は地元の常連客で賑わっており、尻上がりのイントネーションで「~だべぇ」「~すっぺぇ」等のきつい栃木訛りが飛び交っていた。隣席に座る年配女性たちは、長男の就職先がどうとか、次男の嫁がどうといった身内の話で盛り上がっており、田舎の閉鎖的な空気感が伝わってくるのだった。駅前からして風俗の影も形も無かったが、シズカに教えられた住所は更に田圃の多い地域である。蔵のある家も珍しくなく、時折、風に乗って牛舎の匂いが漂ってくる。本当にこんな場所にデリへルがあるのだろうか? 民家の間の小道を歩いていると、突然、庭先にいる番犬に吼えられ、驚かされるのだった。

「ここ! ここ!」。見ると、前方でシズカが手を振っている。指差す先は、瓦屋根の古びた一軒家。看板も表札も無く、強いて怪しい点を挙げるなら、ブロック堀で囲われた敷地内に車が何台も停まっている点か。いや、それでも傍目にはデリへルの事務所などとは絶対にわからない。向かいの平屋ではお爺さんがひとり庭仕事をしており、近隣の畑からは重機を動かす音が響いていた。そんな田舎の風景に、すっぽり溶け込む一軒家である。「1階が事務所と待機室。2階が寮になっていて、今は私ひとりで住んでいますね」。そう言われて家全体を眺めてみたが、部屋の窓はカーテンが閉まっており、人の気配を感じることはなかった。「こんな場所にデリへルがあるなんて、近隣住民も気付かないよねぇ」。私が言うと、「どうだろう? 送迎車で家に入る時、外を歩いていた小学生の男の子3人組が、ニヤニヤしながら窓越しに私のことを見ていたんですよ。だから知っているのかも」。シズカは当たり前のように答えた。田舎の小さなコミュニティーでは、隠すほうが難しいのかもしれない。「夜はこの辺真っ暗で、蛙の大合唱が凄いんですよ。ゲロゲロゲロゲロ、それしか聞こえない。朝は日光で6時には目が覚めますね」。落ち着いた場所で話を聞く為、私とシズカは再び駅に向かって歩いた。舗装されていない砂利道を歩いていると、派手な改造自転車に乗った少年が蛇行運転して通り過ぎていき、私は思わず目で追ってしまった。「那須塩原は断トツで田舎ですね。今までも、田圃の中の一軒家っていうスタイルのデリへルはあったけど、ここまで田舎は初めてですよ」。車社会の為か、道を歩いているのは子供と老人ばかり。部活帰りの中学生集団は、ジャージにへルメットを被って自転車を漕いでいた。突然、ランドセルを背負った小学生に「こんにちは」と挨拶され、シズカも「こんにちは」と返している。私が驚いていると、「知らない人にも挨拶する風習は、田舎だと偶にありますよ」と教えてくれた。「何が田舎って、観光地にバスが出ていないことですよ。観光客に優しくない! 私が行きたい場所は、車じゃないと行けないところばかりなんです。アルパカ牧場はバスが出ていないし、ピラミッド元気温泉は寮から歩くと7㎞はあるし、湯西川温泉の平家狩人村は公共機関を使うと片道4時間はかかる。鬼怒川に花の町っていう昔の遊郭街があるんですけど、そこも遠かったから止めましたもん。観光行くのに、ここまでバスが無いっていうのは初めてですよ」。那須塩原に来て1週間。何と、未だ一度も観光に行けていないという。ペーパードライバーのシズカは、レンタカーを借りて乗り回すこともできず、タクシーを使う贅沢は絶対にしない。計画していた観光ができず、モヤモヤしているのだった。「ありがたいことに、歩いていける距離にスーパーマーケットと本屋があるので、生活に不便は無いんですけど、そこしか行っていないですね」。不完全燃焼の毎日である。

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皇室メディアを右往左往させる愛子さま“激ヤセ”騒動からの体重リカバリー

20170816 13
2016年以降、その激ヤセぶりが多くのメディアに報じられ、原因が取り沙汰された皇太子ご夫妻の長女・愛子さま(15)。2017年4月、学習院女子高等科の入学式では、以前と比べればかなり体重も戻った様子で、今度は“戻った原因”が話題になった。「愛子さまは、昨年9月頃から目に見えて痩せた姿になり、更に1ヵ月ほど中学校に登校できなかった時期があったと聞いています。皇太子さまの誕生日(※2月23日)の時は一番細くなっていた時で、ご一家の映像も“引き”でしか流せないほどの激ヤセぶりでした。入学式でも『愛子さま単独の写真は使用できないのではないか?』との憶測が広がっていたのですが、随分と体重が戻られたようです。2月の時点では、専門家たちが『明らかに摂食障害である』と判定していたのですが、宮内庁は頑なにそれを否定していた。原因についてははっきりしたことはわからず、思春期特有の過度なダイエットが原因ということになっています」(週刊誌記者)。

ダイエットにも様々な目的があるが、若い女性にとって一番の目的は美容上の理由――簡単に言えば「綺麗に見えるようになりたい!」という気持ちからである。一部の女性週刊誌においては、“雅子さまへの反発”説や、「同じ皇族の佳子さまが多くのメディアに露出し、大人気となっていることを意識し、“綺麗”に目覚めたのではないか?」というおせっかいな推測もあったが、実際問題として、昨年少し痩せた時点で「可愛い!」という世間の声が大きくなったのは事実だという。「ご本人がそうしたことを意識されているかどうかはわかりませんが、少なくとも食べたいのにそれができないという状況ではないことが、今回の入学式のお姿で証明されました」(同)。常に国民の注目を浴び、些細な体調の変化でもその原因を詮索されてしまうのは、皇室ご一家の宿命であるが、皇族も若い世代は携帯電話やスマホを自然に使いこなしている。「以前であれば、直接耳には入ってこないような種類の情報が、スマホを通じて入ってくるという状況は間違いなくあり、これが皇族に有形無形の影響を与えているというのは以前から指摘されています。愛子さまは未だ未成年で、公務は最小限に留められていますが、成人になればもっと色々な場所に“出る”仕事が待ち受けることになります。今は多少、不安定なところがあったとしても、その頃には体重の激変といった変調は無くなるのではないでしょうか」(同)。日本一有名な高校生である愛子さまの“復調”で、昨年来大騒ぎした皇室メディアも、漸く一息吐くことができたようである。 (取材・文/本誌編集部)


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